NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

『ヘッド・ショット』/手当なき残虐行為、そして邪悪な小さいおっさん

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東京では新宿武蔵野館で一日一回か二回しか上映しないという小規模な公開だが、金曜の夜に何かキツめの一発をもらいたくて行ってきた。

簡単に言えば、“もしもアクション映画で次々に襲い来る刺客が、ザコが一人もいなくて全員「遣い手」だったらどうなる?” という問いに全力で応える作品。まあ大変なことになってた。

 


映画『ヘッド・ショット』予告編

 

簡単な粗筋を書いておこう。

 

海辺の街の砂浜に、意識不明の重傷を負った男(イコ・ウワイス)が流れついた。男は医師アイリン(チェルシー・イスラン)の懸命の治療により、2ヶ月後にやっと意識を回復する。頭部に撃ち込まれた銃弾の影響からか、名前も含め自分の過去をまったく思い出せない彼を、アイリンは「イシュマエル」と呼び、絆を深めていく。しかし、殺したはずの男が生きていたと耳にした犯罪組織のボス・リー(サニー・パン)は、手下に命じてイシュマエルの抹殺を計る。成り行きからアイリンが拉致され、怒りに燃えるイシュマエルは次々に襲い来るリーの刺客たちと熾烈な闘いを繰り広げる……。

監督は『KILLERS キラーズ』などのモー・ブラザーズことティモ・ジャヤント&キモ・スタンボエル*1。アクション監督はイコ・ウワイス率いるウワイス・チームが手掛ける。

 

粗筋書いといてなんだが、ストーリーは正直かなり緩い*2。だがまあ、とにかく殺気に溢れた痛そうなアクションシーンが最初から最後までみっちり詰め込まれているのは見ものだ。この映画におけるイコ・ウワイスは、記憶喪失ということもあってか物語の途中まではわりあい劣勢の立ち回りを演じていて、そのため決め手となる一発は殊更に必死の、痛々しいものになる。

アクション……というか「何かとてつもなく残忍な行為が、決定的な、回復不能な暴力が今まさに始まる……!」という瞬間にカメラがあたかも恐慌状態に陥ったかのごとく(あるいは武者震いしているかのごとく)ぶるぶると小刻みに揺れ、編集のリズムも不安定になるという手法が多用されるが、これはなかなか良かった。

そういう意味で良かったといえば、インドネシア産バイオレンス映画特有……と言えるほどインドネシア映画を見ているわけではないが、まあ、あの例の、バイオレンスシーンではないところでも溢れ出してきているなんとも言えない厭な空気感が超濃厚で、ところどころ黒沢清の映画時空と繋がっているかのようなショットがあってそこは凄かった。

具体的には、クライマックスの敵アジトでやっと再会したアイリンとイシュマエルを捉えたカットの次、ラスボスのリーが廊下の暗がりからスーッと現れるところを写した妙な角度からの一瞬のショット、照明の不気味な色や顔の表情がよく見えないのもあって、あそこのリーはまるで「生者ではない者」のように見えて虚を突かれる。『回路』で主人公がコンビニに入ろうとするとバックヤードに突っ立っている店員の幽霊的なものを見るシーン、あるいは『クリーピー 偽りの隣人』で香川照之が初めてあの家のドアから出てきて挨拶をするシーン。映っているのはただの人間のはずなのに、どう見ても「生者ではない者」に見えるあの撮り方、あれに通じるものがあり、とても魅力的だった。

魅力的といえば、とにかくこのラスボスのリー(サニー・パン)というキャラクターは良かった。かつての塩屋俊と松尾スズキを足したうえにさらに邪悪さを五割増しにしたような、ものすごく寝不足そうな黒ずんだ顔なのに常にニヤニヤしている小さいおっさんで、この人が出てくるシーンはだいたいぜんぶおっかなくてとても良かった。冒頭の脱獄のくだりはもちろん、敵対組織との取引の場に昼飯の焼きそばを入れたコンビニのビニール袋持ってぶらぶらやって来るとこなんか最高である。この後絶対に何か悪いことが起こる……という恐怖感が半端ない。最後に主人公と肉弾戦をするのは物語上の要請としてしかたないところはあるが、フィジカルな強さを見せられるとあの不気味な邪悪さが薄れてしまうのは残念。サニー・パンは役者でありファイト・コレオグラファーでもある人とのことで、まあもちろん見応えはあるわけなんですが、できれば雰囲気だけでひたすら怖い悪役でいてほしかったなあというのが個人的な感想です。

 

ザ・レイド』のような傑作、とかではぜんぜんないんだけど、このリーという悪役のキャラクターだけで俺としては大満足でした。そういうのが気になる方はぜひ劇場で。

*1:別に本当の兄弟ではない。

*2:特に、リーがほとんど自分から進んで逮捕された後に手の込んだ脱獄をした理由が不明瞭。お話的には「息子」である主人公を自ら殺したことへのある種の傷心からの行動、メタに言えば冒頭五分のキャッチーな展開を作りたかったことからの逆算……というのはまあわかるんだけど、映画内ではそこらへんのところをうまく語り得ていない。

仙台駅すぐそば「さくら野」

所用があり、ここ数日で仙台方面に何度か足を運んだ。

 

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先週のニュースで、仙台駅すぐそばという絶好の立地に立つ「さくら野」という地元老舗百貨店が、日曜まで営業してたのにその日の夜に従業員全員解雇、月曜から自己破産手続き入りでテナント以外は突然の全面閉店で騒然としている、というのを読んでいたので、そういえばどうなってるんだと行ってみた。

 

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確かに閉店している。が、フロアの一部にH&Mが入ってる二階には入れた。後は上の階のブックオフは営業しているようだ。

 

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入り口脇の休憩スペースに座っていた老婦人の皆さんが、急なことでびっくりした、これからどうなるのかしら。というようなことを今まさに話していて、まるで夕方のニュースで流れる街頭インタビューのようだなとぼんやり思った。

 

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富士そばにて

にわかに話題になっている‪『けものフレンズ』、インターネットの奴ら案件だと思ってるので俺は見ていない。が、日曜日の夜遅くに富士そば行ったらこんなことがあった。

けっこう酔ってるっぽいアラフォー男2・女1のグループが入ってきて、蕎麦を啜りながら大声で‬‪会話している。

「○○先輩はこう見えてサーフィンやってるんだぜ」

「えー意外!」

「いやまあ、俺昔ハートブルーって映画見て」

「でさ、なんか最近もののけフレンズとかいうのが流行ってるらしいんだよね」

もののけー? 知らなーい」

ハートブルーっていう」

「なんかユーチューブでさ」

「それはマンガ?」

ハートブルーって」

「マンガマンガ。アニメ」

「知らないなー」‬

ハートブルーっていうさ、知ってる?」

「いや、知らないっす」

「知らないですー。テレビですか?」

ハートブルーっていう映画があってさ、知らない?」

「あー、でも俺けっこう映画見るほうっすよ」

「あたしぜんぜん見ないんだよねー」

「で、なんかユーチューブとかで見るんだけどさ、最近はもののけフレンズってのが面白いらしいんだよ」

結局、『ハートブルー』についても『けものフレンズ』についても、誰も決定的なことを言わないまま別の話題に移っていったが、少なくともこれくらいの範囲にまでは話題が波及しているということか、という知見を得た。学びとしたい。

『ドント・ブリーズ』/監督はきっと根が真面目な人

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映画 『ドント・ブリーズ』 予告

 

本作の監督であるフェデ・アルバレスの前作、リメイク版『死霊のはらわた』でも思ったんだが、この人は根が真面目なんだろうな。

死霊のはらわた』では薬物依存症の妹の治療(ドラッグ断ち)のために山小屋に籠ることにした若者たち(妹とその兄、兄の恋人、友達や看護婦など)が酷い目にあうんだが、ゴアシーンが妙に自傷的なものばかりなのが気になった。スプラッター云々とは違った意味で痛々しい物語になっていたと思う。オリジナル版の美点である「恐怖とゴアの臨界の果ての爽快感」は、リメイク版ではほとんどなりを潜めていて、やたらと陰惨なイメージだけが残った(スタッフロール後のファンサービスが白々しく感じられるくらい)。

そんなわけであまり評判のよろしくなったらしい前作(俺は好きだが)からちょっと間が空いてしまっての第2作目である。低予算だがスマッシュヒット、評判も上々という感じらしいし、それも頷けるできであることは否定しない。が、やはり憂鬱な雰囲気は全編を覆っていた。以下若干ネタバレの箇所があるので注意。

 

 

本作では、不況下のどん詰まりの街・デトロイトで犯罪に手を染める未来のない若者たちが、老いた盲目の元軍人と暗闇の中で死闘を繰り広げる。低予算でワンシチュエーション、様々な技巧を駆使しながらも90分とコンパクトにまとめたスリラーという、いわゆる「映画的快楽」をストレートに味わえる(はずの)作りだが、いや確かに味わえはするのだが、ジャンル映画的「キャラクター」としては重すぎる……生真面目すぎる人物造形が、物語に拭いがたいダウナーな空気を醸し出す。

例えば短気なクズだと思われたヒロインの彼氏が、自らの命が今まさに奪われんとするその一瞬に仲間たちを庇う。それをお涙頂戴的に過剰に描くことなく、他のキャラクターに英雄的行動だと賞賛させるでもなく、容赦なくばっさりと切っていく。

ヒロインはいくつかタトゥーを入れていて、老人の家に押し入ることを決めたとき、新しくテントウムシのタトゥーを腕に入れる。まだ筋彫りだ。ヒロインのことを密かに好いている男友達が訊くと、この仕事で大金が手に入ったら足を洗って街を出る、カリフォルニアに行く、そこでタトゥーに色を入れるんだと呟く。問わず語りに、子供の頃クズな親にクルマのトランクへ押し込められたことが幾度もあったこと、そのときトランクの隙間からテントウムシが入ってきて腕に止まったことを語るヒロイン*1……登場する人物全員がそんな感じだ。

それでいて、ジャンル映画の枠から逸脱するような過剰さ、突き抜け、高揚……には踏み出さず、半歩手前くらいできちっと折り畳む。例の「体液」の下りでさえ、老人の狂気よりも絶望の深さのほうを前面に出した演出で、ある意味丸めて描いていると言えないだろうか。生真面目で、器用なのか不器用なのか、そういうところが妙に印象的な作品だった。

*1:この印象的な会話は後半の2つの展開の伏線になっているのも見事。

『君の名は。』メモ

今更ながら『君の名は。』を見てきた。新海誠をずっと見てきた人には色々感慨があるのだろうなと思うが、残念ながら俺は『ほしのこえ』くらいしかまともに見てないので、今作もウェルメイドな佳作といったくらいの感想だ。以下、つれづれにメモ。

  • 物語上の大きな仕掛けについて知っている状態で見たからかもしれないが、アヴァンタイトル→オープニングで勘のいい人ならなんとなく気づく演出があったような。それがなかったとしても、劇中でその仕掛に直接的に“言及”している小物が画面の端に写るシーンが2箇所ある。
  • バランスとしてTVアニメ3話分くらいの時間配分。特に第1話にあたる冒頭30分強くらいはまさに「次が気になるTVアニメ第1話」といういった配分で、アヴァンタイトルで気を持たせてセンスのいいOPへの入りでエモーショナルに煽り(タイトルロゴの出し方は特にいい)、そこから一旦肩透かしするかのように抑えたトーンの演出へ移行し、そしてとうとう入れ替わりに気づいた2人→ドタバタのモンタージュに被さる曲(EDとか次回予告っぽい)……と、とてもテンポがよい。
  • 本編始まる前に5本くらいあった他の映画の予告編を見ていたので尚更はっきりわかったが、お話的にはここ数年くらいの日本映画、特に若者向け恋愛ものでよくある「愛し合う若い2人のどちらか片一方が、難病やら超自然的現象やらSF的な何かによって記憶を失ったり短期的に時間を遡ったりして巻き起こる悲恋もの」のフォーマットに忠実。つまり男女の「すれ違い」が物理的なものではなく、記憶や時間の流れによって成される。これは携帯電話やネットワークの普及によって現代を舞台にした物語で物理的/場所的なすれ違いを描くことが困難になっていることとも関係しているだろう。
  • で、そのフォーマットをアニメでやるので実写よりもスケールの大きな見せ場を作れた、という感じだ。それとは別に、都会と田舎/田舎の伝統行事と美しい自然風景などの地方自治体タイアップ映画的な要素も押さえている(別にタイアップではないけど)。
  • そういう意味でも、「今の日本映画」のメジャー感を強烈に感じる作品だった。誤解を恐れずに言うなら、アニメ映画に独特なハイコンテクストなところがほとんどない(細田守の映画よりも)。
  • あと、描き方がああいう感じなので問題ないが、若干、諸星大二郎っぽい話だなーと思ったり思わなかったり。『妖怪ハンター 組紐カタワレ異聞』みたいな。

『Bugってハニー』と「あの頃」のハドソン製ファミコンゲーム

30周年記念ということでTOKYO MXで地上波再放送が始まった『Bugってハニー』の第一話を見た。放映当時このアニメを熱心に見てたわけではなく、ゲーム版のほうもとっちらかった内容だなと子供ながらに思ってちゃんとプレイしたことはないので、正直言って思い入れはほとんどない。細かいところもほとんど憶えていないし。

が、改めて見るとなんかすごいドラッギーな世界描写だったのが面白かった。『高橋名人の冒険島』のキャラクターを下敷きにした「高橋原人」が主人公で彼はゲームの中の世界に住んでいるわけだが、その世界の描写が不思議。南の島で、顔のある巨大キノコたちや巨木が話しかけてきたり、というのはおとぎ話的描写でまあわかるんだけど、ジャングルの木の幹に交通標識やバーコード、JISマークやSTマーク、麻雀の点棒などなど雑多なものが刺さっていたり貼られていたりしていてカオティック。

たぶんこれ、当時の(あまり若くない)アニメのスタッフたちが、当時のゲームのグラフィックにおける記号的な混沌をなんとか自分たちなりに解釈しようとしてこういうことになっているんじゃないだろうかと思う。劇中の要所要所では『ロードランナー』や『ボンバーマン』などハドソンファミコンソフトのゲーム中画面をそのまま模したシーンが挟まれるのだが、手描きのちょっとひょろひょろした線で表現されるドット絵が、「時代」って感じだね。

 


ちょい見せ 「Bugってハニー」

 

あと、小林亜星作曲のOP/EDテーマ曲で高橋名人がやけに美声かつ達者な歌を披露するのが印象的。特にOPテーマは映像も相まってなんだかおしゃれ歌謡曲というかソフトロックというか、なんだかそんな感じで良い。

近々で高橋名人の歌声を聴いたのはYMCKの「ロッケンロール・ランデブー featuring 高橋名人*1だけど、あれはゲストボーカルで歌うというよりはMCみたいな感じだったから特に歌声の印象はないんだよな。YouTubeで探してみると、2012年のライブでまさにこの曲の生歌を披露している映像があった。これを見る限り今も変わらずいい歌声だ。

 


高橋名人 Bugってハニー ~ ボンバーキング JADE-Ⅳより

 

ファミリーレーシング

ファミリーレーシング

 

 

と、持ち上げといてなんだけど、ファミコン版『Bugってハニー』前後くらいからのしばらくの時期、感覚的には『迷宮組曲』から『亀の恩返し』くらいまでの時期のハドソンファミコンソフトって、当時はどうにも好きになれなかった。

Bugってハニー』は横スクロールアクション+ブロック崩しというジャンルミックスものだけど、あの時期のハドソンのゲームってゲームジャンルに限らずいろんな要素を雑多に詰め込んでいて、それでいて詰め込んだ要素同士のシナジーがうまくいってない……みたいな印象があったんだよね。もちろんこの印象は今の俺の言葉で表現しているものだから子供のときはもっと漠然と、最初に書いたとおり「とっちらかった内容だなあ」くらいの感覚だったのだけど、妙な居心地の悪さみたいのを感じていたのだった。

ぶっちゃけ、子供の頃の俺はアクションやシューティングゲームでの「隠しキャラ」とか「謎」みたいなものがあまり好きではなかったのだと思う。なんでだろうなあ。どうも小学生なりに、「小学生に媚びてやがる!」と憤ってた節はあるような気がする。

逆に、同じくらいの時期にハドソンPCエンジンで出していたゲームにはそういう感覚はまったくなく、自分ではPCエンジンを持っていなかったこともあって憧れの対象だった。ハドソンPCエンジンの初期に出していたソフトは、移植作も含めてアーケードスタイルのシンプルなゲーム内容をリッチなビジュアルで表現したものとか、硬派なアドベンチャーゲームRPGとか、実験的なCD-ROMタイトルとか、とにかくファミコンとは一線を画する「中学生が遊ぶゲーム」って印象があったのだ。今となっては、その印象は少々買いかぶりすぎだったと知っているけど、当時の小学生の自分には、ファミコンのゲームの同一地平線上、あるいは延長線上にPCエンジンのゲームがあるとはあまり思えず、「ゲームセンターのゲーム」と同程度に、ファミコンのゲームとはかけ離れた存在に思えたのだった(「パソコンのゲーム」に関しては当時はほとんど知識がなかった)。

今は別に、あの頃のハドソンファミコンソフトにそういう苦手感覚はなくなって、あの時代の小学生が「ファミコン」に抱いていたリビドーを貪欲に取り込んだものとして捉えている。ああ、そのうちレトロフリークにその頃のハドソンファミコンソフトを取り込んで、連続して遊んでみるのもいいかもしれない。

*1:『ファミリーレーシング』収録