NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

「ゲーム批評」が編集方針の掲載をやめる

 今号の「ゲーム批評」(特集:オンラインゲームの虚実)を読んでいたら、巻末の執筆者一覧ページに“誌面から伝わる編集方針を目指して 「『ゲーム批評』の編集方針」掲載取り止めについて”という囲み記事が。
 タイトルどおり、創刊10年の節目も近づき今号から「編集方針」の掲載を取りやめる、ただし編集方針そのものを変えるわけではなく、今後は誌面そのものから編集方針が自ずとわかるものにしていきたい、という内容だった。
 この「『ゲーム批評』の編集方針」というのは、だいたいいつも表2とか表3対向とかに載っていたもので、まあいろいろごちゃごちゃ書いていたけど要するに「ゲーム会社のちょうちん記事は書きません、だからそのためにゲーム会社の広告も載せません」みたいなやつ。なんか最近は表4に「ゲーム批評に広告を出そうという勇気あるゲーム会社は存在しますか?」とかいう(すごくまわりくどい)広告出稿のお願いも載せていたりしたから、いろいろと内部で方針についての意見の相違みたいのもあったのかもしれない。単純に台所事情とか。

 だけどまあ、「ゲーム会社の広告を載せない」とかそういうのを自慢げに載せて、毎号飽きもせず同じ論調の煽り記事を載せて(個々のライターの記事には時としてそういった画一的な論調とは異なるものがあるにはあるけど、「編集」が最終的にはいつもと同じ結論に持っていく)、このままではゲーム業界はダメになってしまうとかなんとか、大作は悪、大手ゲーム会社は経営危機、中小デベロッパーの作ったゲームは隠れた傑作なのに売り上げ的には惨敗→今のユーザーにも問題が、とかもうね、もうね、ほんとうに幼すぎたよ。中学生じゃないか。

 ああなんか腹立ってきたので前に別の場所で書いた日記を掘り起こした。2002年6月。

 「ゲーム批評」7月号を買う。特集・「XBOX玉砕の理由」。なんというか、駄目な左翼系言論誌/紙の低レベルな模倣に満ちた雑誌だといつもいつも苦々しく思いながら、それでも毎号買っているのは読ませる記事がちょっとだけ混じっているからだ(具体的に言えば新清士のレポートと多根清史のレヴューだ。ただ、新清士の記事にはたまに「?」と思わせるところもあるし、多根清史のレヴューはレトリックに溺れすぎて何を言っているのかわからなくなることもある。それでも新の記事は駄目な左翼系マスコミにありがちな自己満足的問題提起——の、そぶり「だけ」——をすることは慎重に避けているし、多根のレヴューは時として「レヴュー」ではなくちゃんと「批評」としての立ち居振る舞いを見せてくれる)。まあそういう記事がたまに挟まっているとこも、ますます駄目な左翼系マスコミのイロって感じではある。
 なによりも笑えるのが、巻末のソフトレヴューページの最後に付された「初心者のために今号のソフト批評 読みどころを総チェック!!」と題された“復習”コーナーだ。このコーナーがもう、「赤旗」の文化欄とか解説欄とかの雰囲気そのまま。いや、民青の勉強会かな。むしろ秀逸なパスティーシュとさえ言える。
 同じ版元から出てる「ユーゲー」(元「ユーズドゲームズ」「ナイスゲームズ」)がいい意味で同好会的な雰囲気に満ちているのに、こっちのほうはなんでこんなにアレでナニな感じなのか。メインターゲットにしている読者の年齢層の違いなのか。いずれにせよ、広告を載せないからゲーム業界に忌憚のない意見を述べることができる、なんていう愚にも付かない青臭さを存在意義にしているような、反骨の身振りを繰り返すことだけが自己目的化している雑誌に「批評」なんて名乗らせたままにしておくのは、もうそろそろやめにしたほうがいいのでは、と最近心の底から思うようになってきた。

 ……ごめん、なんか俺のほうが中学生みたく熱くなってる。夜中の俺は中学生。エターナルなフィフティーンがオンマイマインド。ドントクライ。