NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

『新装版 戦中派不戦日記』山田風太郎(講談社文庫)

 それまでは比較的冷静・客観的な(むしろ冷笑まじりでさえある)記述が、8月に入って急に熱烈な愛国的主観に占められるのが不思議だったのだが、巻末の橋本治の解説がそのことを見事に読み解いている。つまり、孤独な青年の(日本という国への)愛の物語として読み解いているのだ。
 以下、橋本治の解説から最も感動的な箇所を引用。

 山田誠也という孤独な青年は、日本が絶望状況に入って行く“運命の年明く”という、その年に、実は初めて孤独から脱出して生活して行くことが可能になった人間なのである。もっと極端なことを言ってしまえば、昭和二十年という年は、山田誠也の絶望状況に日本という国が初めて、歩み寄ってくれた年なのである。この『戦中派不戦日記』を貫く見事な客観性と、そして真に率直なる主観性とはそれによって初めて可能になったものだろうと、私は思う。
 疎開先の飯田で初めて敗戦を予感した時、初めて彼は“純真”なる視野狭窄の“愛国者”に公然と陥る。彼は日本が敗北すると分った瞬間、初めて日本という愚かな人間で満ち満ちている国を愛することが出来たのだ。彼は初めて「可哀想な日本!」と断言出来たのだ。なんという悲劇だろう。“肚をうちあけた”時は、その相手が死ぬ時なのだから。八月中の記述は、その彼の熱烈なる愛情表現で占められる。なんと単純で、なんと痛ましい空回りだろう。
 狂熱の八月が過ぎて九月。“一日(土)雨”――冷静が戻って来る。そしてそれは、自分の愛したものの正体がただただ愚かなものでしかなかったという、くやしさである。終戦以後をこれだけ率直なくやしさで貫いたものを私はあまり知らない。それは勿論軍国主義者の開き直りえはなく、愛してしまったものがその瞬間に裏切られていたことも知ってしまったそのくやしさだ。
(P.691-692)強調部分は傍点

 思わず椅子から立ち上がって読み続けた。

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)