NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

『赤毛のアン』と『けいおん!!』

 最近は寝る前に、CSで再放送している『赤毛のアン』を見ている。アニメ版をちゃんと見るのはほぼ初めてで、原作も読んだことないし、映画版を子供の頃に見たが内容はほとんど忘れている*1。だからかなり新鮮な気分で見ているのだが、これがもう、面白い。あーアンは面倒くさい子だー、でも思春期直前の頭でっかちで空想癖のある子供ってほんとこんな感じだよ俺がそうだったからよくわかるー、アンのキャラデザ、頭が他の人物よりも大きめで額が広いところなんかまさにまさに、内面が容貌を規定するよ、アンが一人で妄想を語っているのをマリラがあっさり断ち切るところの間の付け方はほとんどコント、で断ち切られたときのアンのちょっと気の抜けた表情を毎回こまめに押さえているところなんか本当に丁寧な描写って感じだし、マリラもあれだがダイアナの対応がわりと大人というか受け止めるべきところは受け止め流すところはさらと流す感じが実にらしいし、あとダイアナが「いちご水」を立て続けに三杯飲むところのグビグビ感(どんなだ)は実に素晴らしい。挙げ続ければきりがないが、とにかくこれは、本当に、なんていうか、異様に豊かな作品だということで、たまにそういう作品に出会うと頭真っ白になるような多幸感に包まれる。多幸感。多幸感っていえばOP/EDの歌と映像はすごい。OPでアンの乗っている馬車が地面から浮いて走っているところ、あれはいいなー、昔、麓敬子*2が『耳をすませば』を評して「教室の床から3センチほど浮いてしまった女の子と男の子の恋愛」というようなことを書いていたのだが(手元に当該記事がないのでうろ覚え。たしか北海道新聞に載った評だと思う)、ここもまさにそれで、ふわふわと浮いているんだよね。浮いてしまっている、とも言える(そもそもその系譜のオリジン的な作品なわけだし)。想像力が他人よりもちょっとばかり豊かであるがゆえに、周囲からほんの少しだけ浮いてしまう存在。でもアンはまだ幼いゆえに「浮いている」ことをあまり認識していなくて、そして周囲の人はそんな異質な存在としてのアンを、少しばかり呆れたり(アン・シャーリー、まったくあんたって子は!)しつつもなんとなく受け入れている、あの絶妙の距離感。いやしかし、いやしかし。新任の牧師さん夫妻をもてなすために料理を作ったら、バニラエッセンスと間違って痛み止め薬を入れたケーキを出してしまってショック! というエピソードに一話を費やし、しかもそれが異様に面白いというのはまったくすごい(ケーキを食べた瞬間のアラン夫人の微妙な反応!)。痺れる。
 で、同じくどうということのない日常のエピソードを過剰なまでの緻密さで設計する『けいおん!!』を見ていても、やはり同じような多幸感に包まれるのだった。何ヶ月か前、一期をDVDで集中して見たときは、8話まで見て茫漠としたもの、何か虚無感に似たものを感じ取ってしまいどうにもこれは……とうまく乗れなかったのだが、その後少し間を空けて最後まで見て、11話〜13話の流れにはハッとして思わず居住まいを正した。具体的には、MUJIのビーズクッションにのべーっと寝転がって腹出して見てたのが、正座して前傾姿勢で腕組みになった。気持ち悪い。そのままほぼ連続して『けいおん!!』第一話を見たもので、なんというか自分の中でこの作品に対する意識、モチベーションが一気に裏返るのを感じたのだった。ぺろんと。一期と比べ、とにかく二期『けいおん!!』の豊かさは尋常じゃない。一期はあの各話間の時間の跳躍・省略が激しく、それはある種のダイナミズムとしても機能していたけれど、物足りなさはあった。それを二倍の話数をかけて、その中で流れる時間は一期の半分なのだから、これは濃密にならざるをえない。というか高校三年生の一年間の「日常」というレイヤーを描くなら、それくらいの時間をかけて描かれるべきだろうとは思う。
 まあとにかくですね、『赤毛のアン』を寝る前に見ると多幸感に包まれる。火曜深夜は続けて『けいおん!!』を見ることになるので倍掛けで異様な多幸感に包まれ、たぶんこれを続けていると死ぬ。オーバーキル多幸感。人は幸せすぎると死ぬ。

*1:そもそも映画版はTVドラマの再編集だったらしいので、かなり駆け足の内容だったと思う。

*2:札幌在住の映画評論家。地方紙・誌に映画評を連載していた。90年代半ばに「ごもく映画通信」というフリーペーパーを主宰し、北海道各地の映画館や書店、チケット販売所で配布。このフリーペーパーがめちゃくちゃ面白かった。今でもとってある。