NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

JAEPO 2018

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JAEPOに行ってきたので個人的に気になったところをざっとメモ。

 

バンダイナムコエンターテインメントの隣にバンダイナムコテクニカという会社のブースがあって、知らなかったので調べたら昨年4月に設立されたアーケード機器の保守などの会社だった。ほほう、セガグループでのセガ・ロジスティクスサービス的位置付けなのかなと思ったが、その他に他社製アーケード機器の仕入れと販売もやっていて、今回のJAEPOではそちらのほうでの出展だった。昨年2月のJAEPOではバンナムブースの隅のほうで米Raw Thrills社の製品がいくつか展示されてて(そしてたぶんユージーン・ジャーヴィスらしき人も見かけた)、たぶんそれ関係のセクションが独立、合流したということなんだろう。

というわけで、このバンダイナムコテクニカブースにはRaw Thrillsなどの海外メーカーの製品がいくつか参考出展されてた。筐体デザインのテイストが日本メーカーとはまた違ってある種の情緒があるな。あとリデンプション機というのかな、あのチケットを吐き出す機械が展示されてた。

 

www.port24.co.jp

リデンプションは英語にすると「redemption」で買い戻し、質受け、償還などと日本語訳されるようです。
これだけだとなんのコッチャサッパリわからないと思いますが、簡単に説明すると、現在の日本のメダル機は、メダルもしくは現金を入れると、メダルが出てきます。

それに対して、リデンプションがOKになると、メダルの代わりにチケットを払い出すことができます。
そして、店舗内に景品交換所があり、チケットの枚数に応じて景品が貰える仕組み。

 

(中略)


この仕組自体は、日本以外の国では割りと一般的で、中国やアメリカのゲームセンターと呼ばれるスポットではメジャーな存在です。

 

風営法の関係でまだ日本では導入できないわけであくまで参考出展だけど、あれなんかいいね。トランスルーセントでLEDキラキラでナムコキャラがちりばめられたやつとかもあって、意味もなく部屋に置くために欲しくなってしまった。

 

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あと、懐かしのというかなんというか、アプリでほんのいっとき超話題になって消えた『Flappy Bird』の……まあなんというかインスパイアというかフォロワーというか、まあ端的に言ってクローンゲームが置いてあって、これもリデンプション対応なんだろうけど、まあそういうのには合うだろうなと思った。

 

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バンナムテクニカの話が長くなったが、その他にはタイトーブースで例のリアル『PONG』を遊んできた。まあおしゃれな筐体だったな。ただ、筐体の高さはもうちょっとあったほうがいいと思った。かつてのテーブル筐体くらいの高さなら飲食店のテーブルにできる気がする。あと、近くで見るとバーとボールの作りがちょっとチャチなのが気になった。

 

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あと、この時代に新開発基板でリリースということで話題を集めてる『アカとブルー』もプレイしたよ。アプリ版のときに、面白いとは思うけど物理スティックとボタンで遊ばせてくれと思ってたので、これで完成の感があった。

 

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でかいとこだと、セガの『Fate/Grand Order』とスクエニの『星と翼のパラドクス』がやはり目立っていたし、ビッグタイトルらしいお祭り感がある展示で良かったな。特に『星と翼のパラドクス』のブースでは、どんどん写真撮ってSNSに流してねという看板があって、時代だなと思った。今でも割と写真撮影禁止表示が多いAM系のショーでは珍しい。

 

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『GODZILLA 怪獣惑星』/とにかく主人公が怒る

今年は6月くらいから仕事がとても忙しく、心身ともに異様な疲弊と焦燥感にさいなまれる日々が続いていたわけだが、なんとか一段落つきつつあるのでその合間を縫って……というか休日出勤が終わった後に会社の近くの映画館で見てきた。とりあえずつれずれと感想。

 

怪獣映画というよりもSFアニメとして楽しい感じではある(やっぱ舞台が舞台だけに巨大さの表現が弱い)が、マジメに作ったファイナル・ウォーズ風味はあるかも。

とにかく最初から最後まで主人公が怒ってるのが良かった。ゴジラに畏怖の感情はほとんどなく、とにかく巨大な怒りと憎しみの対象としていて、つまり神殺しの物語になってる。ちょっと山田正紀の『神狩り』を思い出した。神的存在が出てきたらとにかくぶっ殺す手段を考えるというのはとても健全な精神だ。ガンガンぶっ殺していこう。

 

まあそれはおいといて、今作のゴジラの造形で気になるのは顔、表情である。「恐ろしさ」「凶暴さ」「強さ」「かっこよさ」「ヒーローっぽさ」などなどは歴代ゴジラの造形で手を替え品を替え表現されてきたが、今回のゴジラの顔はなんというか、ある種の諦観・達観さえ覗えるような、老賢人じみた表情なのだ。これはどういうことか。主人公がとにかく怒りまくって、ゴジラもなかなかの大暴れを見せるものの、顔は老賢人。あれかなあ、三部作の2作目、3作目では主人公が怒りの感情を鎮め、地球の意志を体現する存在としてゴジラとなんらかの和解をするとか、そういう転がしかたななのかなあ。そうはなってほしくないなあ。主人公には怒ったまま最後まで突っ走ってもらい、ゴジラをぶっ殺してほしい。できれば人ならざる者に変化したりとかそういうんじゃなく、独りの人間として情念のみのデタラメな勢いでぶっ殺してほしい。アニメでならそれができるはずだ。地球と和解系の話はさあ、これCGアニメだろ? 大都会のオフィスで超ハイエンドなマシンをブンブンぶん回して作ってるわけじゃないですか? そんな作品でそんなこと言われてもねえ……って気分になるからぜったいやめてほしい。なんならあの森をすべて焼き尽くしてしまってもいいよ。森を焼き払い、独りの人間としてゴジラを殺してほしい。この下等生物めと貶めてほしい。そうした涜神的行為をするためにこそ、ゴジラをCGアニメ化した意味があるんじゃないか?

 

疲れているので筆が先走った。2種族出てくる異星人だが、エクシフはX星人がモチーフとなっており、ビルサルドはブラックホール第3惑星人がモチーフとなっている。で、三部作の第2作目ではメカゴジラが本格的に出てくることが予告されている(本作の冒頭で、ビルサルドがメカゴジラを建造するが、何らかの理由により起動できなかったというエピソードが軽く語られる)。

ということはさ、三部作の最後は当然あいつが出てくるわけでしょ? となると宇宙から襲来するであろうそいつと、地球側代表のゴジラがぶつかるわけじゃないですか? そんで主人公の名前は「ハルオ」……それって今年(2017年)の夏に亡くなった、ゴジラ映画関係者(……というかゴジラ“そのもの”だった方)の名前にちなんでたりする? となるとつまり主人公はゴジラと……あるいはゴジラに……「そういう意味」での「和解」という転がしかたなのかな……などといろいろ妄想が進む。

邦画の実写で二部作三部作だとほとんど間を置かずに劇場公開するけど、できればこのCGアニメゴジラシリーズも立て続けにやってほしかったな。あまり考えすぎないうちに次が見たい。

 

ところで、映画に合わせる形で角川文庫から刊行された大樹連司GODZILLA 怪獣黙示録』も読んだ。これは単なるノベライズではなく、プリクウェルもの、映画に繋がるまでの前史をドキュメンタリータッチで描いた小説だ。……ドキュメンタリータッチというか、まあぶっちゃけマックス・ブルックスWORLD WAR Z』のあの形式で怪獣総進撃をやろうという試み。

最初はあまりにもWWZ「すぎる」ので若干苦笑気味に読んでいたのだが、東宝怪獣特撮映画全般に対するとてもよくできた二次創作作品として、実に素晴らしかった。今回の映画とも接続する物語ではあるんだけど、ぶっちゃけその点はわりとどうでもいい。これはこれで別個の作品として読まれるべき佳品だと思う。

ただ、終盤は明らかに駆け足だったし、全体の尺もこの2倍は欲しい。続巻も出るとのことなので、こちらはこちらで期待したい。

 

ウルトラセブン「超兵器R1号」と円谷幸吉

前から気になってるのだが、『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」(ギエロン星獣の回)でモロボシ・ダンが言う名台詞

「それは、血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ」

は、円谷幸吉が自殺した事件を踏まえたものだったのだろうか。

父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。

で始まる、あの有名な遺書を残して自死を選んだマラソン選手のことである。

円谷が自殺したのは1968年1月9日、「超兵器R1号」のテレビ初回放映が68年3月31日……ということを考えると、事件後に脚本を書いたというのは時間的に微妙な気がする。

が、仮に偶然の一致だったとして、当時の視聴者は円谷の自殺を連想せずにはいられなかったのではないか。円谷は自衛官でもあったわけで、その点でもこのエピソードのテーマに絡めて連想が働きそうだ。

エピソードそれ自体の問題提起とともにその連想が強烈に働き、いわゆる「名台詞」として人口に膾炙するのに拍車をかけたのでは……と前から想像してるのだけど、どうでしょうね。ある種の無意識の受容史として。

まあ当時の視聴者、というのはそのほとんどが子供だったわけなので、見てすぐに円谷選手を連想したかというとそうでもないかもしれない。でも長じてからもウルトラが好きで拘りを持ちづけた者たちが(つまり特撮オタクたちが)、偶然かもしれないとしてもその時代的連関(に、見えるもの)に気づかないわけはないと思うんだよね。

『ハードコア』/ “あの頃” のFPSのように

こちらもすでに上映は終了してると思うけど、感想を。4月頭くらいに見ました。

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→公式サイト


「全編主観視点、まるでFPSFirst Person Shooter)のようなハイテンションの銃撃戦が繰り広げられる新感覚アクション映画」という鳴り物入りで去年あたりに話題になった……という話だけネットでは聞いていて、たぶん日本ではDVDスルーかなと思ってたら劇場公開されたので驚いた。

 

 

というわけで見に行きました。以下、あらすじ。

 

どことも知れない研究施設で目覚めた男。記憶は全くない。科学者らしき美女・エステル(ヘイリー・ベネット)が現れ、男の名前は「ヘンリー」で自分は彼の妻なのだと言う。エステルは自分の研究を応用し、何かの事故により大きく損傷したヘンリーの身体を治療しているのだ。欠損した腕と脚を機械の義肢に付け替え、次は声帯の再生手術を……というところで謎の組織が研究施設を強襲、サイコキネシスを持つリーダーのエイカン(ダニーラ・コズロフスキー)によりエステルは拉致されてしまった。正体不明の協力者ジミー(シャルト・コプリー)に導かれ、ヘンリーは機械の身体のスーパーパワーを駆使し、満身創痍になりながらエイカンを追う……!


プロデューサーにティマール・ベクマンベトフ(『ナイト・ウォッチ』)が付いているが、監督のイリヤ・ナイシュラーはこれが長編第1作目の新人。というか本職はパンクバンド「バイティング・エルボーズ」のフロントマンという人。で、同バンドの曲「Bad Motherfucker」のPVを彼自身が手掛けたわけだが、これが全編主観視点のバイオレンスで一躍全世界的注目を浴びる。というわけでこのノリでいっちょ長編劇場映画を作ろうぜ! とやったのが本作。

撮影は全編Go Proで行ったとのこと。私は酔わなかったが、走ったり跳んだりしてるときの細かなブレもあまり調整せずにそのまま使っているので、ダメな人は本当にダメだと思う。

 

POV映画で、主観視点人物がとにかくひどい目にあいながらひたすら逃げるのをほぼノーカット(風味)で描く、という感じの作品はいまやとても多い。この作品も手法としては同じなのだけど、POV映画のようにカメラの前で「ハプニング」が起こることの映画的衝撃を効果的に使うタイプではなく、まさにビデオゲーム風、つまりFPSのシングルプレイモード的な、プレイヤーの目の前でイベントが発生して進んでいくタイプの語り口になっている。あーつまりあれだ、前者はひとまず「ドキュメンタリー」を偽装しようとするけど、後者は「物語」を語ることを隠さない。そんなわけで、とてもゲーム的な映画と言える。

が、“全編主観視点のバイオレンスアクション” という一発ネタ以上のものになっているかというと諸々足りてないというのが正直な感想だし、ゲームファンの立場から言わせてもらえば「主観視点・目の前で起こるイベントとアクションで駆動する物語」としても00年代後半から10年代初頭にかけて数多のFPSで模索されたこと以上のものを見せてくれるわけではない。感覚的な話をすれば、2009年頃の、AAAクラス「ではない」、メタスコア70点台のFPSのような感じだ。

 

でもね、このボンクラ濃度の高さはやはり憎めない。

特に、予告編でも使われていたQueenの「Don't Stop Me Now」が流れるシーン、あの曲のメロウでスロウなイントロが流れ始めた瞬間に観客のほとんどが「あーこれがやりたかったんだなお前は!」と了解してしまうあの感じ、あまりに有名な曲のため、このスロウなイントロのすぐ後にアップテンポにブチ上がることを当然観客は知っていて、つまり今スクリーンではスローモーションで危機が描かれているがそれが数秒後にはどうなるのかを観客は未来確定的に了解してしまう、例えるなら電気ケトルで少量のお湯が沸騰するのを待っているごく短い時間のようなもので、そしてそれは全編主観視点のこの映画においてはイコール主人公の情動になっている、まさにあらかじめ約束されたカタルシスへと向かう一瞬の平穏……というあの瞬間は素晴らしい。できればそこで終わってしまって良かったのでは、と個人的には思ったりするのだが……。

あと、ヘイリー・ベネットがとってもエロい映画でした。