NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

『ヴァスト・オブ・ナイト』/……何かが空を飛んでいる!

ヴァスト・オブ・ナイトのワンシーンのスチル

Amazon Prime Videoで『ヴァスト・オブ・ナイト』を見た。Amazonオリジナルでの配信だが、元はスラムダンス映画祭に出品されたインディーズ映画で、それをAmazonが買い付けて配信+アメリカではドライブインシアターでの限定上映ということのようだ。

1950年代終わりのある夜、若き電話交換手のフェイと人気ラジオDJのエベレットはニューメキシコで不思議な周波数の音を耳にする。それは彼らの小さな町と未来を変えてしまう可能性を持つものだった。

Amazon Prime Videoでの紹介から引用

粗筋からもわかるだろうし冒頭でストレートに『ミステリー・ゾーン(トワイライト・ゾーン)』へのオマージュを捧げているように、SF/ホラー/奇妙な味の短編小説風味のお話。50年代末のアメリカの片田舎を舞台にした「接近遭遇」もの、といった内容だ。

というわけでお話としてはごくごくありふれたものなのだが、これが初監督作のアンドリュー・パターソンはかなり才気走った語り口で見せていく。

とにかく登場人物がのべつ幕なしに喋りまくり、空に飛んでいる「何か」について意味ありげなタレコミや告白がラジオ局の電話に舞い込む。ほぼ映画のランニングタイムと同じ時間(90分)の一夜の小さな出来事を、技術的に若干不安定なのが逆に不穏に感じる夜間撮影(あるいはそれも計算のうちか)と長回しで紡いでいく。そのリズムが実にユニークだ。

特に年の離れた主人公コンビ(田舎町でちょっとくすぶってるけど地元の人には人気のディスクジョッキー中年男と、電話交換手のバイトをしている女子高生)が延々とたわいもない日常の会話をしながら移動する冒頭のシークェンスは素晴らしく、ジャンル映画を見ているつもりでいたらジャンルのクリシェの語り口とは明らかに異質なものを急に見せられて意表を突かれるという「ジャンル映画を見ているときに最も楽しい瞬間のひとつ」を味わうことができる。

50年代の地方ラジオ局DJブースや電話交換台の描写も魅力的で、序盤の電話交換台の前で徐々にサスペンスが高まっていく長回しのシーンは、アルバイトの女子高生役シエラ・マコーミックの演技と相まってとても良い。こんなに電話交換台がフィーチャーされるサスペンス描写は『暗闇にベルが鳴る』以来じゃないだろうか。

とまあ、全編にそういった場面が頻出して、つまりこれ、ジャンル映画の典型的な題材を、ジャンル映画の枠内から微妙に逸脱したナラティブで描くという、いかにも若々しいインディーズ映画という感じに仕上がっている。感覚的な話になるが、ヒューマントラストシネマの毎年恒例「未体験ゾーンの映画たち」特集上映のラインナップの中にひっそり入っているようなイキフンの、ちょっと拾いものの一本だった。

 

さてこっからは映画本編の感想とは微妙にズレる話だが、本作で個人的に最も感心したのは、いわゆる「接近遭遇」ジャンルをかなり意識的に純「怪談」映画として描こうとしているところ。つまり誰かが「怪談を語る」シーンをメインの見せ場として全体を構築している映画であるということだ。それは映画の前半と後半にそれぞれ別の人物による、長い長い告白として描かれる。その間、映画はほとんどカットを割らず、その告白をする者と聞く者、その語りが成される場を、まるでその語りそのものによって暗闇の向こう側から「何か」がこちらへ実体化するのではないかという予兆をはらんだ、明らかに他のシーンとは違った手つきで描こうとする。

たぶん直接的な影響関係があるということではないだろうが、ここで私が連想したのは『霊的ボリシェヴィキ』だった。この2本にはある種のシンクロニシティがあると思う。ここで本作を『霊的ボリシェヴィキ』とのシンクロニシティから武田崇元経由でオカルトの文脈で語るような感じのレビューは探せばきっと誰かが書いているだろうけど、まあ俺には手に余る。

 

閑話休題。というわけで『ヴァスト・オブ・ナイト』はちょっと拾いものの一本でした。会話が多いけど字幕が若干こなれてないので、吹替での視聴をお勧めしたい。字幕版と吹替版が別々に用意されているわけではなく、再生中に切り替える形なので注意。

 


THE VAST OF NIGHT Official Trailer (2020)

 

ヴァスト・オブ・ナイト

ヴァスト・オブ・ナイト

  • 発売日: 2020/05/15
  • メディア: Prime Video
 
霊的ボリシェヴィキ

霊的ボリシェヴィキ

  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: Prime Video
 

『さらば愛しき人よ』('87)の佐藤浩市

寝る前にYouTubeをダラーッと見てたら、レコメン動画に若い頃の佐藤浩市が写ったサムネイルが混じっていた。おやこれはと思って見てみると、原田眞人監督/郷ひろみ主演の新感覚(?)ヤクザアクション映画『さらば愛しき人よ』('87)からのクリップ。

佐藤浩市郷ひろみの弟分役の木村一八と対峙するシーンで、佐藤のアクの強いキャラクターと「チャカとだんびらどっちが強いと思う?」「タラッタラッタらったうさぎのダンス」という台詞が印象的な場面だ。

どうもこの動画が密かにバズってるらしく、再生数とコメントがじわじわ増えているっぽい。僕が初めてYouTubeで見たのは7月7日あたりで100万再生を越えたくらいだったが、今(7/15の深夜)見たら200万再生を超えている。何かきっかけがあってバズっているというわけではなく、レコメンに上がってきて初めて見て、そのままなんとなく気になって何度も見てしまうという人が多いらしい。

コメントを見てみるとASMR文脈で何回も見てしまうと言っている人がいて、なるほどといった感じ。確かにこの佐藤浩市の芝居、ほとんど囁き声の潰れ声で常にニヤついてるこの感じは、ASMR味が強いと思う。原田眞人のキレッキレのカットワークと画面レイアウトもあって、何度も見てしまう気持ちはわかる。

 

さらば愛しき人よ』は今、国内ではソフトも配信もなく、見るには北米版のDVDを買うしかないようだけど、これきっかけでどこかで配信とかしてくれないかな。ついでに原田眞人つながりで『タフ』シリーズも配信しないかな。

さらば愛しき人よ/ Heartbreak Yakuza(北米版)(リージョン1)[DVD][Import]タフ PART I-誕生篇- [DVD]

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これ、自分でもすっかり忘れてたんだけど、俺は学生のときに浜崎あゆみとちょっとだけ交流があって、浜崎あゆみのファーストアルバムリリース時の伝説的なプロモーション、渋谷タワーレコード入り口に設置された巨大ガチャガチャに全身に金粉を塗ったあゆがCDの山と共に一日閉じ込められるというあれ、あのプロモーションのとき、俺はイベント設営のバイトしててたまたまその現場に回され、巨大ガチャガチャの中の浜崎あゆみに1時間ごとにドリンクを手渡す係をやっていて、そのときに渡した紙パック入りの飲料(「僕たち飲むならピクニック!」というCMのあれ)のことは今でも妙に覚えているのだが、ガチャガチャの中に入っていた全身金粉を塗った女性が浜崎あゆみだったという認識はなく(当時はまだ浜崎あゆみも有名ではなかったので)、だがその後しばらくたってから、音楽誌のライターをやっていた先輩の手伝いで浜崎あゆみのインタビューに同席する機会があって、俺は件のバイトのことはすっかり忘れてたんだがインタビューの途中でデビュー時のプロモーションの話になり、突然あゆが俺を指差し、え、ピクニックの人じゃない? みたいなことを言って俺もやっと記憶が繋がって、あ! と言ったあと一瞬間を開けて2人でゲラゲラ笑うということがあり、まあ別にそれだけの話であれからもう四半世紀近くもたってそのこともまた忘れていたんだが、先日、在宅勤務で気が滅入って、いい天気だし気分転換に散歩でもしよう久しぶりに、と思って近所をぶらぶらしてるとき、石材屋の横を通りかかったら浜崎あゆみがいたのだ、マネージャーらしき女性と大きな御影石の墓石の前に立っていた浜崎あゆみを見て俺は急に四半世紀前のバイトのことやインタビューの席でのことを思い出し、あ、ご無沙汰してますとモゴモゴと挨拶したのたが当然のようにあちらは無反応で、まあそりゃそうだと、思いつつ石材屋会館に入って二階に上がっていく途中で例の音楽ライターの先輩に会い、久しぶり、今あゆのインタビューやってるんだよ、ロングインタビューで、毎週この石材屋でインタビューしてるんだ、今日で二週目だぜ、へーそうなんですか、じゃあ来週も来ますね、という会話をしたんだ、そう、俺は浜崎あゆみと昔ちょっと交流があったんだよなあ、交流というか接点か、まあ自分でもぜんぜん忘れてたんだけどさ、という話を、先日目が覚めてから15分くらい妻に話していた。俺は浜崎あゆみのことは詳しくないんだが昔こんなことがあってと話してる途中で、虚構と現実の皮膜が、境界線が曖昧になるのだという思いが強くなり、強くなった瞬間「虚構と現実の皮膜が、境界線が曖昧になるんだよねえ」と口に出していた。

 

A BEST

高橋ヨシキ『スター・ウォーズ 禁断の真実』

スター・ウォーズ 禁断の真実(ダークサイド) (新書y)

 著者曰く、サブタイトル「禁断の真実」は営業側の要望で付けたタイトルだということで、別にそういったセンセーショナルな内容ではない。公開年ではなく、物語内の時代に沿って各作を語っていく構成(つまりep1から始まりep8までを語っていく。『ローグ・ワン』『ハン・ソロ』もそれぞれの作中年代に合わせてep3と4の間に配置)。

各作ごと、あるいはスター・ウォーズ全作を通じての突っ込んだ評論というわけではなく、著者一流の膨大な知識に裏打ちされたフワッとしたエッセイ、読み物といったところ。私自身は正直、スター・ウォーズにそれほどの思い入れがあるわけではないのだが、ep9鑑賞前のサブテキストとしてサクッと楽しく読むことができた。

 

旧三部作およびプリクウェルまではルーカスらオリジンを生み出した制作者の手にあったため、例えどんな内容であれファンは(最終的には)受け入れざるをえなかったし、制作者側も(結果はどうあれ)新しい挑戦ができた。

しかし、ルーカスの手を離れディズニーのIPとなって以降、関わるクリエイターたちはまず何よりも自らがこの超有名シリーズの新作を継ぐに相応しい者であるという正当性を、つまり自分もまた勉強熱心なファンボーイなのだということを、ファンコミュニティに対して必要以上にアピールしなければいけない状況があり、それはあまり幸福なことではないのではないか……という話が途中出てくる。これはスター・ウォーズに限らず、超有名IP(そう、“作品”というナイーブな対象ではなく“IP”というビジネスの問題だ)の続編をオリジンクリエイター以外の者が作り続けなければいけない現在のエンタメ業界全般に関しても言える話で、ちょっと気をつけて考えていく必要があることだろう。

 

ep9公開に合わせての出版ということで、急いでいたのか校正がけっこう甘い。誤記のためたぶん筆者の主張と反対のことになっている箇所が終盤にあり、そこはマイナス。

夢_2019

今朝見た夢。

 

かつて同じクラスだった中年男女20人くらいが、何十年ぶりかの同窓会的に山小屋に集まっている。その山小屋に集まるまでにちょっとしたタイムリミットサスペンス的なできごとがあって(ここらへんはもう忘れた)、そのおかげで20人はかつてのチーム感を取り戻したりして、まあ人生いろいろあるけど、俺たちあたしたちもなんだかんだで、うまいことやってこれたな、まあ良かった、みたいな感じでしんみり酒を酌み交わす。夜。と、そこへ巨大人食いヒグマが襲来。だいたい3つのグループに分かれて離れた場所で飲んでた中年男女を順繰りに食い殺していく。最初のグループは全滅、2つめのグループには猟銃を持った2人(一人はかつてのクラスで日陰者で、今回の同窓会でも他のメンバーとはちょっと距離を置いている)がいたので全滅を免れるが、手負いのヒグマは最後のグループ(ロッジの中で飲んでいる)へ向かう、追いかける猟銃2人組、ヒグマの頭へライフル弾と散弾を叩き込むが、ヒグマは脅威の生命力で頭半分吹き飛んでもまだ襲いかかる、その手にかかり、はらわたを散らして死ぬ猟銃2人組、やっとのことで力尽きるヒグマ、ロッジの中で飲んでいたメンバーもほとんどが食い殺されていたが、難を逃れた中の一人コニー・ウィリス(40代半ば、妙にかわいい)は、自らの紡ぐ物語とはまったく違う現実の理不尽な暴力を目にしてあまりの絶望にショック死してしまう、なんていうことだ、暴力は“曝される”だけで人を殺してしまうものなのか、それは人々の積み重ねてきた“物語る”という営為を嘲笑うかのような……だが、そんなことはない、これで終わってしまうわけではないということを、〈僕〉は知っている、なぜなら〈僕〉は、この“物語”に“二周目”があることを知っているから……〈僕〉はデイヴィッド・●●●●(忘れた)、MBAを取った後に一般向けビジネス啓蒙書を数冊書いてそこそこ売れた他は、特に目立った業績もない作家、ロッジの隅でこの地獄の光景を見ていた〈僕〉は、クラスのみんなを救うため、あの愛らしいコニー・ウィリスが絶望とともに死を迎えるのを阻止するため、“二周目”の物語を紡ぎ始める……というところで目が醒め、うーん、これはなかなか面白そうだが、こういうのは本当にベテランの手練れの作家じゃないとうまいこと書けないだろうな、とトイレで5分くらい考えていた。

 

あけましておめでとうございます。