NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

「ファウスト」Vol.1を読んで、見当違いのイチャモンをつけてみる

 たぶん「ファウスト」が刊行されてからだと思うが、「佐藤心」というキーワードで検索エンジンから飛んでくる方が何人かいた。「新現実」などに載った評論は読んでいるものの、佐藤氏に関してこのサイトで触れたことはないと思うのだけど、何故だろう?
 「ファウスト」創刊号は彼女が勤め先からもらってきたのを私にくれたのでざーっと読んだ(いくら書籍とか文芸誌の世界ではDTPによる制作がまだ珍しいからって、巻末の「『本物』のDTPがここにある!」とか「日本のDTP業界と文芸業界はこの「ファウスト」第一号で激震でしょう」という編集者の言葉はあまりにもふかしすぎだと思った)。だがこれは、佐藤友哉西尾維新もどこが面白いのかさっぱりわからない、いや百歩譲って「ここが面白いんだろうな」と見当はつくけどぜんぜん納得できない私には縁のない雑誌だった(舞城王太郎は楽しく読んでいる)。そんなわけだから笠井潔TYPE-MOONにインタビューしているのは本当に凄いと思った。
 現在のところちゃんと読んだのは東浩紀の評論だけなんだが、この評論のなかで激烈にネタバレしている『Ever17』(PS2/KID)はかなりプレイしてみたくなった。知らないでプレイするからこその衝撃なんだろうけど。


 で、東浩紀のこの評論は、ライトノベルの最近の潮流を読み解くためにゲームやマンガや、それらについて論じた評論を解析していくもの。
 ぶっちゃけて言えば東浩紀が論じる「オタク」についてはあまり興味がないので、いつも「ははあ、なるほどねー」くらいの感想しか抱かないし、東浩紀の「オタク」論に異議を唱える人や彼を嫌う人の意見も「うーん、そういうものか」としか思わないのだが、東浩紀(あるいは「新現実」の佐藤心ササキバラ・ゴウの評論)を読んでいていつも歯がゆく感じるのは、まるで「ゲーム」というメディアには「ギャルゲー」しか存在していないかのように読めてしまうところだ。そしてそのギャルゲーは、物語を語ることに特化されたメディア、としての側面からしか論じられていないように見える。
 彼らは別に「ビデオゲーム」について論じようとしているわけではないし、「オタク文化」の最もエッジな作品群のひとつとしてある種の「ギャルゲー」を扱っているわけだから、これは甚だ見当違いなイチャモンだということはわかっている。だーけーどーさー、別に「ゲーム」ってオタクだけのものじゃないんだしさー、物語を読むという1アクションのみがギャルゲーを「プレイ」することのすべてじゃないんだしさー。
 いやもうほんと、見当違いも甚だしいのはよーくわかってるんだけども、でもさ、いわゆるゲームマスコミ以外の場所でビデオゲームが語られるとき、その大部分がオタク論の延長線上にあるというのは、誤解を恐れずに言うならとっても貧しいことだと思うのだ。そういった語られ方では、ビデオゲームの、ビデオゲームをプレイすることの豊かさが大幅にスポイルされている。例えばかつてdotimpactで語られた「インダイレクト・コマンド」や「時間管理される物語について」のような豊かさを持った論……「オタクの快楽」からの視点ではなく「ビデオゲームをプレイすることの快楽」の視点から、ギャルゲーというジャンルの豊かさを論じたテキストをこそ、私は読みたい。あ、もちろんギャルゲーに限定しているわけじゃないけど。


 結局のところ、こういうことは東浩紀に言ってもしょうがないことだ(はた迷惑なだけで申し訳ない)。オタク論の延長以外の論点からビデオゲームを語る論客や、そういう種類の言説を掲載できる場が別途必要なのだ。もちろんそれはとても困難なことなのだろうけれど。