NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

出会うことのない隣人 ニンテンドウ64版『どうぶつの森』

 Wi-Fiに対応したDS版が来週にリリースされようとしている今、こんなことを書くのもどうかと思うが、『どうぶつの森』はオンラインゲームではないというのが素晴らしいゲームだったのではないかな。いや、これは断言してしまってもいいだろう。オンラインゲームじゃなかったからよかったのだあれは。


 『どうぶつの森』は今更いちいち挙げるまでもなく、素晴らしく素敵なところがいっぱいあるゲームだった。実にキュートで、チャーミングで、それでいてスマートな部分がいっぱいあるゲームだった。
 いちいち挙げるまでもなく、と書いたけどいちいち挙げたくなる誘惑は抗い難いのでいちいち挙げるが、ゲームスタート直後、性別や名前などのプレイヤーデータを電車の中でネコと世間話をしているうちにいつの間にか入力させられているところとか、64の3Dスティックに最適化された文字入力インターフェイスとか(あれは本当に素晴らしい)、かわいいけれどどこか毒のある森の住人たちとか、ゴキブリとか、ゴキブリを踏み潰したときの魂が還っていくところとか、雨の日の早朝(これは実際に現実世界でも早朝なのだ)に浜辺へ打ち上げられた貝殻とか、「花火大会」の表現のスマートさと叙情とか、プレイヤーキャラを走らせているときの「走ってる」感がヘタなアクションゲームよりも強烈なとことか、木を切り倒すアクションの妙な気持ちよさとか、リセットさんとか、とたけけとか、とたけけの演奏で始まる毎週土曜日の夜8時台限定の「エンディング」とか。エトセトラ、エトセトラ。
 そんなステキ要素満載のこのゲームをプレイしている最中、常に意識されるのは「隣人」のことだ。一度も出会うことはないが、彼もしくは彼女のことは、森の住人たちとの会話の中でしばしば話題になる。時にはその隣人が森の住人へ宛てた手紙を見せてもらえることもある。無残に切り倒された木々、道のど真ん中に無造作に置かれた大量のアイテム、ムカつく住人の家の周りに掘られた落とし穴から、隣人の傍若無人な振る舞いの痕跡を見ることもできる。たまにその隣人から手紙が来ることもある。珍妙なアイテムが添えられて。
 出会うことのない隣人、つまり自分以外のプレイヤーの存在が、このゲームをとても豊かなものにしている。


 こうした、自分以外のプレイヤーの存在・影響によってゲーム内の世界が変化していくタイプのゲームを、我々は主にMMORPGなどのオンラインゲームで楽しんできた。多人数のプレイヤーが同一のゲーム空間にリアルタイムで存在し、リアルタイムでチャットしたりアイテム売買をしたり協力して敵を倒したりお互いに殺しあったりしてきた。リアルタイムにコミュニケートしてきたのだ。
 『どうぶつの森』でも、それとほぼ同じようなコミュニケーションを他のプレイヤーと行うことができる(殺し合いはできないけど)。決定的に違うのは『どうぶつの森』はオンラインゲームではないということで、プレイヤー同士のコミュニケーションは非リアルタイムであり、間接的に行われるというところだ。
 手紙で、プレゼントで、森の住人たちとの世間話のネタで、我々は間接的に相手の、出会うことのない隣人の生活の息吹を感じる。友達や恋人が帰ったあと、一人になってから改めて『どうぶつの森』をプレイし、彼/彼女が僕の(僕たちの)森に残していった密かな足跡を発見する。さっき後ろでぼーっと眺めていて見逃していた場所に落とし穴が掘られていたりする。時報のメロディが微妙に調子っぱずれになっているのを耳にする。ちょっとかわいいリスの住人に宛てた手紙の内容が「ああああいいいいううううええええ」だったりして、それを嬉々として見せてくれたリスが哀れになったりもする。そんな取るに足らない小さなこと。
 隣人はいる。確かにいる。だが、ゲーム内では出会うことがない。考えてみれば不条理な状況だ。多人数で遊ぶことを推奨されているにも関わらず、非マルチプレイで非オンラインで非リアルタイム。複数のプレイヤーキャラクターが同一のゲーム空間に同時には存在できないがゆえ逆に、たった一人でプレイしたとき、取るに足らない小さなことに他者の存在を強く感じてしまうのではないだろうか。
 ニンテンドウ64版『どうぶつの森』が発売された2001年は、(前にも似たようなことを書いたが)「オンラインゲーム」に対する期待感が異様に高まっていた。特に家庭用ゲーム機の世界では『ファンタシースター・オンライン』=MORPGの次にくる「何か」=MMORPGへの具体性を欠いた夢・幻想・妄想が、ユーザー・メーカー・マスコミの三者をメロメロにしていたように思う。
 そんな状況の中で、プレイヤー同士のコミュニケーションをテーマにしているのに「オンラインゲーム」に拘らず、控えめで慎ましやかな非リアルタイム・間接的コミュニケーションを敢えて選択した『どうぶつの森』は、だからこそ意義があったし、だからこそオンラインゲームとはまた違う、自分以外のプレイヤーの「他者性」を見せることができたのではないかな、と僕は思う。
 だけど、こないだどこかで『どうぶつの森』はもともとオンラインゲームとして企画されてたけど当時の任天堂の状況的に無理だったのでああいう形になった、という趣旨の記述を読んで、あれ、そうっだったっけ?と少し驚いた。実際のところはどうなのか、「敢えて」じゃなく「しかたなく」だったのかもしれないけど、結果的にはあれで良かったのだと思いたい。


 なんだかんだ言って、Wi-Fi対応になってネット越しに他のプレイヤーと同時にプレイすることも可能になったDS版『おいでよ どうぶつの森』を楽しみにしている自分がいる。今度は「出会うことのない隣人」なんかじゃなく、ちゃんとゲーム中で他のプレイヤーと出会うことができるし、たぶんチャットもできるんだろう(なるべく事前情報を見ないようにしているので、詳しいことは知らない)。
 だが、そこにあるのは、あの64版の『どうぶつの森』とは一見似ているものの、全然違うタイプのコミュニケーションになるんだろうな、とは思う。それがいい悪い/面白いつまらないは別として。