NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

「観光客」の視線について

 「電車男」や駅前再開発の影響で秋葉原が観光地化してる! 物見遊山でやって来た一般人がオタクを「土人」扱いして嘲笑してる! ってなコンフリクトを最近ネットでよく見る。あんまり秋葉原行かないんでそこらへんの空気はよくわからないんだけど(そういや、ヨドバシができてから行ってないや)、どうなんでしょうね。六本木もヒルズの影響でいわゆる一般人が大量に流れ込んでくるようになったんだと思いますが、あれかな、やっぱ六本木野獣会の人とかは「六本木が観光地化してる!」とかって怒ってるんですかね。
 まあそれはともかくとして、僕は有名な観光都市で生まれ育ち、有名な観光名所のすぐそばに実家があるので実感としてよくわかるんだけど、どんなに静かに見て回っていようとも、「観光客」の視線というのは地元民にとってある種の暴力だったり強制力として作用するのです。これはもう、逃れ得ない。テレビや映画などで自分の住んでいるところが舞台として登場すると、まあそれなりに誇らしげな気分になったりもするんですが、それと同時に、これは自分の住んでいる場所の都合のよいデフォルメでしかないという思いが拭いがたく、冷静にその作品を見ることができなくなったり。
 そしてそんな僕でも、どこか自分の地元以外の観光地に行けば、それはもう不躾な観光客の視線でじろじろと街の風景や人々を見ているわけですよ。それで何かに対してわかったような評価を下してみたり。観光というのはただの旅ではなく、自分の見たものや触れたものにその都度何らかの短評を下す行為だと僕は思っています。短評はその後深く掘り下げられるわけではなく、あくまでその瞬間ごとの印象、ファーストインプレッションに止まるので、当然ながら地元民との実感とはかけ離れています。また、ある地域が観光地化されるというのは、それら一見のお客さんでも簡単に「短評」や「感想」を抱けるように街の有り様を改造し、単純化・ステレオタイプ化していくことだと思います。なるべく万人にわかりやすい方向へとかみ砕かれていく。街が。
 秋葉原によく行くオタクたちが好むと好まざるとに関わらず、秋葉原は今、かつてないほど単純化された「短評」「感想」によって消費されつつあるのだと思います。「電車男」「Aボーイ」「萌え」「メイド」とまあこれくらいの単語があれば、観光地としての「アキバ」は99%くらい正確に語ることができるでしょう。そんなふうに単純化するな! と言っても「観光客」には通じません。好むと好まざるとに関わらず、オタクはその存在自体が「Aボーイ」という観光資源としてかみ砕かれたのです。
 そしてまた、秋葉原界隈に実際に住んでいる人たちも、オタクという「観光客」の視線に対して、何らかの暴力を感じていることは想像に難くありません。自らのまなざしが(好むと好まざるとに関わらず)持ってしまう暴力性については、なるべく意識的でありたいものです。