NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

『トップガン マーヴェリック』/最高練度のウェルメイド

https://topgunmovie.jp/

トップガン マーヴェリック』を見てきたよ。IMAXで。大スターが金をかけ、スタッフも役者陣もその意気に応えて最高の練度で作った「ウェルメイド」、って感じで、まあー実に楽しい一本だった。良かったよかった。

良かったんだけど、本作が良すぎたからか若干の歴史修正を(無意識に)行っている人がいるのがちょっと気になる。たぶん俺と同世代くらいであろう映画好きの人が『~マーヴェリック』の流れで1986年の前作『トップガン』をあたかも名作かのように語る場面を何度か見た。いやー全然そんなことないでしょーだいぶゆるゆるの映画でしょーと思うんだがな。

それは今の目から見てゆるゆるってこともあるんだが、当時の、同時代の観客の感覚としても「ハリウッドのヤングスター映画(=アイドル映画)」としての魅力と影響力は多大にあるけどそういう文脈から独立して生き残るタイプの映画ではないよねという空気感はあったと記憶している。でも、そういう映画であったとしてもあたかも名作であったかのように歴史/記憶を塗り替えしてしまうくらいの力が『~マーヴェリック』にはあったのだ、ということなのかもしれない。それならそれで俺が文句を言うようなことではないが(個人的にはそこまでの感心はしなかったので)。

 

さて、念のため『~マーヴェリック』の予習もかねて前作『トップガン』を改めて見返してみたけど、トニー・スコットの映画としてもちょっとこれは今見てそんなに良いところはないなとは思った。翌年の『ビバリーヒルズ・コップ2』がお話はダルダルなのに映像と編集のセンスだけで見せきってしまうのとは対称的な平凡さだ。

特に中盤のケリー・マクギリスとトム・クルーズのラブシーン(に至るまで)の流れはどう見ても妙で、「愛は吐息のように」がしつこくリフレインされるところも含めて今見ると非常にキッチュな80'sという味わいがある(し、これは当時もわりと変だと受け取られてたと思う。パロディのネタにされがちでしたよね)。

 

そういう意味では、『~マーヴェリック』中盤のトムとジェニファー・コネリーのラブシーンのなんか不思議なショットの繋ぎ(二人の顔が横に並んでて、なんかジャンプカットっぽく時間が経過しているのか、よくわかんないけどトムだけどんどん脱いでいく、あとなんかキラキラしたエフェクトが入る)、あの不思議な感じは前作のラブシーンに通じるものがあり、全体的にカチッとした『~マーヴェリック』の中でも例外的にバランスを欠いたシーンだ。むしろちょっと魅力的ですらある。あそこで「愛は吐息のように」のイントロだけしつこくリフレインされたら面白かったがそこまでやると『ホット・ショット』になっちゃうな。

ほとんどすべての観客が褒めているように、訓練/空戦シーンはどれも素晴らしかったけど、冒頭の極超音速機「ダークスター」(ワンカットだけ機体にペイントされたスカンクワークスのロゴをはっきりと捉えたショットがあるが、なんとちゃんとロッキード・マーチンのスカンクワークスにデザインしてもらっているという!)のテスト飛行のくだりは良かった……というか、え、あの『トップガン』を『ライトスタッフ』のような物語に読み替えるのか!という興奮があった。

だがそうはならず(そりゃそうだ)、前作の流れをほぼそのまま踏襲しながらも主人公の立ち位置を変えることで男が老いとどう向き合うか、そして若い世代に何を継承するか、というハリウッド映画の優等生的な物語に落とし込む。でも演じるのはトム・クルーズなので(さらに付き合っている彼女は現在のケリー・マクギリスではなくジェニファー・コネリーなので)別にリアルな話にはならないしそんなものは誰も期待していないのでこれは別にいい。そういうところはアイスマンヴァル・キルマーが一手に引き受けていて、ここはけっこうしんみりしてしまった(ヴァル・キルマー本人の咽頭癌の件もあり)。

若い世代に何を継承するか的なテーマには「いつかこんな無茶は辞めざるを得ないときが来るけど今日はまだその時じゃない、今回も俺が先頭切って一番の無茶をするからな! お前らに付いてこれるか?」的に煽って若い奴らもウォウウォウそれに応えるという感じでやってたので、まあなんかそんな感じだ。

これはトム・クルーズの映画であり、つまり別に普遍的なことを描くことには一切興味がない、あくまで「トム・クルーズにとっての『老い』への向き合い方」の映画なので別にそれでいいんだが。……ここは重要なことなので重ねて言うが、別にそれでいいのであり、正しいのだ。スターの映画とはそういうものであり、そのように映画を私物化、否、私小説化することこそがスターの存在意義なのである。そしてこの映画においてトム・クルーズが語る私小説はあまりにも健全で真っ当で優等生的に「トム・クルーズに期待されていること」を反映していて、正直なところ俺にはそれがちょっと物足りなかったのだった。

だから、冒頭の極超音速機テスト飛行シークェンスを見たときに俺が勝手に幻視してしまったような、マーヴェリック=トム・クルーズが己の老いとある種の狂気を自覚しながら、孤独に、それでも己の中にある「正しい資質」に殉じるかのように音速の向こう側、彼岸の世界へと突き抜けていく、そんな私小説というよりも「遺書」のような物語を見たかったというのはある。あるけど、さすがにまだそこまでトムは年取ってないよね。俺が先走りすぎただけだな。

極超音速テスト、実際の冒頭のパートではあっさりとマッハ10への到達成功!→さすがだぜマーヴェリック!→だが俺はーさらにーやっちゃうぞー!→マジかよ……信じらんねえ……ってなってオチついてサクッと次に移るの、まさにトム・クルーズの映画の手つきって感じでそれはそれで楽しいんだけどね。

 

さて、映画そのものとは若干ズレる話だが、見に行く前からなんとなくそんな予感はしていたんだけど、SNSの映画クラスタと呼ばれるような界隈の人たちはこういう立ち位置の作品をちょっとデカい言葉で褒めすぎだよなーというのは今回もまた感じた。SNSで通りが良くなるように感想を最適化していった結果、大仰な褒め or 倫理的繊細さの感情的な表明でアテンションを集めるタイプの言説ばかりが目立つようになっていて(目立つように書かれているのだから当たり前だが)、いやーほんとあの界隈の感想は信用できんわーという思いを新たにしました。