NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

男性募集!

年末なので今年撮った写真を見返したりしている。これは8月頃、とある街の焼肉屋へ行ったときに撮ったもの。場末の盛り場によくある広告だが、フォント選びとニュアンスのつけ方、写真素材のチョイスとレイアウトに熟練の業前(WAZA-MAE)を見る。あと貼られてる場所も。

 

 

羽田空港第一ターミナルのドトールからザワークラウトドッグが消えた

羽田空港第一ターミナル、京急空港線改札を出てエスカレーターを上がってすぐのところにドトールがある。個人的に「ドトールはいつだって裏切らない。特にミラノサンドBは」と思っているのだが、ここのドトールはホットドッグのメニューが豊富なちょっと特殊な店舗だ。正式には「ドトール ジャーマンドッグカフェ」という形態の店舗で、全国に2店舗くらいしかないらしい。羽田に行くときは高確率で立ち寄ってる。

先日、一年ぶりくらいで来店したら、一番好きだった「ザワークラウトドッグ」がメニューから外れていた……なんてこった。

15年くらい前までは一般のドトール店舗でもザワークラウトドッグはレギュラーメニューだった。それがいつのまにか消えて素の「ジャーマンドッグ」と「レタスドッグ」だけがメニューに残り、近年ではザワークラウトドッグはこのジャーマンドッグカフェでしか出してなかった。だからここに来るたび必ず頼んでいたのだが……。

しかたないので、新メニューっぽい「カリーヴルストドッグ」にした。カリーヴルスト(焼いたソーセージにケチャップとカレー粉をかけたドイツの庶民派ファストフード)ってのもまた渋いなとは思うし、これはこれでという感じだが、俺は別に今カリーヴルストを食べたかったわけじゃないんだよ……完全にザワークラウトドッグの口になっていたのに……。

羽田のドトールジャーマンドッグカフェは、コロナ禍前まではレジ横に巨大な鉄板があって、ボイルしたソーセージをそこで焼いてからパンに挟んで提供するという最高の店だった。だがいつの間にか鉄板は撤去され、そしてザワークラウトドッグもなくなったとなれば、これは次からは立ち寄らないことになるかもしれんな……と思った。

寂しいね。いろいろなことが変わっていく。だがそれはしかたないのだ。

これは在りし日のザワークラウトドッグ。2022年6月撮影。

『映画刀剣乱舞-黎明-』/審神者については、沈黙しなければならない

「ハリウッド・スケールで描かれるアクション・エンタテインメント大作!」
っていうポスターキャッチコピーはさすがに盛りすぎでは?とは思う。
https://touken-the-movie.jp/

 

人に連れられ『映画刀剣乱舞-黎明-』を見た。基本的には刀剣乱舞ファン向け以上でも以下でもない「閉じた作品」と言ってしまっていいだろう。いわゆる「ファンムービー」だ。そして俺は『刀剣乱舞』に関してまったくファンではない*1

『刀剣乱舞』IPの商品展開としては「ファンムービー」であって何が悪いという感じだろうし、ファンではない俺が何か口を挟むことではないだろう。

だが、映画での前作(物語的なコンティニュイティは薄い)にあたる『映画刀剣乱舞-継承-』が歴史改変SFとしてプロパーのファン以外にも楽しんでもらおうという気概を感じる出来だったのに比べると、本作のそのありようはいかにも貧しい……と外野としてはお節介にも思うところである。

 

思うところではあるんだけど、だがしかし、ところどころにすごく良くなりそうな部分、というか惜しく感じるところがあって、そういう意味で個人的には思いのほか楽しめたと言える。見てるあいだ「んんん、いろいろ足りてないがその意気や良し!」とか思ってた。どういう高さの目線で見てるんだって話だが。

 

特に、まつろわぬ民たる大江山の酒呑童子が日の本へと放った呪詛・憤怒が、一千年後の現代の日本において都市の周縁で顧みられることのない貧困層の少年の慟哭と共鳴し、廃墟のような集合住宅(本作において群を抜いて素晴らしいロケーション!)から放たれた怨嗟の波動が東京を、京都を、日本全国を次々に浸食し、ほぼすべての日本国民の自我・意識を奪うという中盤の展開はとても良かった。寄る辺なき一隅で起こったハプニングが指数関数的にエスカレーションして巨大な事態となる……という、ある種の逸脱したジャンル映画に見られる恐怖のダイナミズム、デモーニッシュなスペクタクル――高橋洋言うところの「映画の魔」のような――になり得る瞬間が本作のあの一連のシークェンスには確かにあったと思う。

映画の魔

映画の魔

Amazon

 

まあそれは俺の一方的な思い込みかもしれない。この映画で描かれる「日の本への呪詛・憤怒」も「貧困の風景」もそこで絞り出される「慟哭」も、どれもが本気ではない「いわゆるそういうやつ」という軽薄な語り口であることを隠しきれていないし、肝心のところで薄っぺらいイメージ映像としてモンタージュ処理されるのはさすがにどうかと思った。

だがしかしそれはそれとして、あのシーンの廃墟じみつつもべったり染みついた生活感のある集合住宅のロケーションは素晴らしかったな。フィクション濃度の高い(それこそ2.5次元な)刀剣男士をあの生のリアル感がある場所に立たせる異化効果は強烈だった。そこは掛け値無しにとても良かった。

調べたところ、ロケ場所は埼玉県富士見市の鶴瀬駅前にあった「富士ビル」というところだったようだ。「あった」というとおり、昨年(2022年)末に解体されてしまったとのこと。うわーすごいタイミングで映画に使えたんだな。

 

 

ただ、そこで繰り広げられるアクションはもう少し頑張ったのを見せてほしかった。ここに限らず、アクションシーン全般がどうも今ひとつふたつくらい惜しい。富士ビルのシーンの前に展開される、廃工場みたいなとこで繰り広げられる三つ巴の剣戟アクションは、台詞回しもファイトコレオグラフもキメキメなんだけどなんか絵としてのレイアウトとか編集のリズム的に間が抜けたとこがあってとても残念だった……というかアクションシーンに限らず、なんかキメ絵になるはずのシーンで妙に間の抜けたショットが出てくることが多くて、うーんどうなんだこれとは思いました。そういうとこも含めて「惜しい」とこが多い映画だった。

 

さて……「刀剣乱舞ファンでもなんでもない俺だが思いのほか楽しめた」というのが基本ラインの感想なんだけど、とは言えこれはひどいなと思った点がひとつある。「仮の主(審神者)」たちの描き方、というか「描かれなさ」についてだ。

本作の物語において、いろいろあって未来から現代(2012年)に派遣された刀剣男士たちは未来にいる(本来の主であるところの)審神者との繋がりが断たれ、そのままではまったく力を発揮することができないどころか存在そのものを維持するのもままならない。そこで、刀剣男士の力を引き出す審神者の素養がある人物たちを「仮の主」とし、一時的な主従関係を結ぶ……という展開がある。

その仮の主というのが「女子高生」「ギャル」「内閣官房国家安全保障局の窓際役人」「神職の初老男性」……と、いかにも「これは面白くなりそう!」なキャラ付けで出てくるわけです。

 

女子高生(いわゆる主人公)

 

博多発東京行き高速バスに乗って刀剣男士と一緒にやって来るギャル

 

内閣官房国家安全保障局のダメ役人(この表情を覚えておいてください)

 

神職おじ


事前プロモーションで映画のストーリーが発表されたとき、この「仮の主」のキャラクター設定についてTwitterなんかではちょっと話題になってたと思う。俺の観測範囲内でのことなので大したサンプル数はないが、おおむね好意的な反応だったように記憶している。こういう、なんていうかオタクエンタメ一流の「面白くしまっせー!」的なキャラクター設定の盛り方(あるいは二次創作的想像力と言ってもいいかもしれん)、まあ、こんなんみんなだいたい好きだと思います。

戦いに特化した人外の存在と仮初めのバディになる、さまざまな背景を持った普通の、あるいは普通じゃない人々の群像劇、そんで伝奇アクション。

そんなんいくらでも面白く回せそうな気がするじゃないですか。燃える展開からほっこり日常経由のエモ哀しい別れまで、オタの好きなもん一通りべろんべろん舐めることできそうじゃないですか。仮の主全員があくまで刀剣男士を引き立てる脇の存在ではあるけどみんな美味しい役どころになりそうじゃないですか。作ってる人・演じる人・見てる人、みんなWin-Win-Winの三方一両ゲットで優勝じゃないですか。この設定で勝ち確みたいなもんじゃないですか。

 

ところがねー、この映画オリジナルキャラクターたちがねー、本当に一切、まったく、ひとかけらも活かされないんですね。

え、そんなことってあります?

 

面白く回そうとしたけどスベって失敗してる、だったらまだ分かる。違うんだなこれが。本作の場合は「回さない、回そうともしない」から本当にびっくりしちゃう。このバラエティ豊かな仮の主の人たち、登場して、ほんのちょっとの台詞で各刀剣男士と絡んで、後はただ棒立ちしてるだけ。本当に立ってるだけ。びびるよ。一切お話に絡んでこず、刀剣男士がピンチの際も励ますでもなくただ後ろに立って見てるだけ。本当にそれだけ。まじびびる。

 

これは公式サイトに掲載されているクライマックス近くの一場面。刀剣男士の後ろに仮の主のうち3人が棒立ちしてるのが見えますよね。たまたまそうなってる瞬間のスチルじゃなく、こんな距離感でずっと棒立ちです。後方腕組み彼氏面でさえない虚無の立ちです。

 

特に窓際役人のキャラクター描写(というか描写しなさ)がすごい。

初登場時には同僚に「あいつ入庁以来何してもダメな税金泥棒だったけど、実はこういう(刀剣男士絡みの)緊急事態に備えて採用されたらしいぜ」みたいな陰口を叩かれます。それってつまり、何か超常の力を(もしかしたら本人も気づかず)秘めていて、ゆえに無能でも雇われてたってことじゃないですか、そういう「展開」のためのわかりやすい伏線として置かれた台詞じゃないですか。

でもこいつ本当に何もしなくて、台詞もほぼなくて、仮の主としての刀剣男士との絡みもほぼ初登場時の短い会話だけなんですよ。なんかあったときにちょっと「驚き顔」をするだけの役なんですよ。最後までそれだけで、「展開」どころか本当に何もないんですよ。すごいですよこれ。

再掲・驚き顔

 

ギャルも神職おじも似たようなもんで、いや別になんか秘められた能力が覚醒してすごい異能アクションを……みたいなことまでは求めないけど(それはたぶんこの映画のメインの客層的には過剰な逸脱に見えると思うし)、でもほら、その「キャラ設定」を活かした刀剣男士との絡み、心の交流、そういうのを経てクライマックスの危機のところで、いわゆる〈アクション〉じゃなくそれまでの「関係性」からの何らかの〈行為〉で彼らを鼓舞したりサポートしたり、そういうのあると思うじゃん普通。

本当に何もないんだよなー。虚無。ナッシング。信じられるか? そんな作劇があるのか?

ほんとここだけはびっくりした。純粋にびっくりしたよ。

 

仮の主たちは「キャラ設定」しかなくて物語を駆動するパーツに一切組み込まれないから、別にギャルとか神職とかじゃなく、全員女子高生であったとしても特に問題ないんだよな。実際、女子高生の友人クラスメートが3人出てくるので、この4人が「ひょんなことから刀剣男士の仮の主に……!」みたいな設定であってもお話の本筋は変わらない。

刀剣乱舞のような、熱心なファンがたくさんいる「コンテンツ」「IP」の一展開である商品において、そのファン層とコンテンツキャラクターとの「関係性」の似姿となるような存在(まあつまり、刀剣乱舞の場合は原作ゲームにおける「プレイヤー=審神者」と同等となる存在)をオリジナルキャラクターとして登場させる場合、どのように処理するのか? 殊に現代のオタクエンタメ業界にとってはそれがけっこうセンシティブな問題で、制作側にとっては難しい意思決定だということはそれなりに理解できる。ちょっとファン層の空気を読み誤ったがゆえにいわゆる「炎上」*2してしまった事例は近々のものに絞ってもいくつか思い出せる。

だから本作における映画オリジナル審神者=仮の主たちの「何もしなさ」はそれらを踏まえた上での針の穴を通すような回答だったのかもしれない*3

でも、言わせてもらえばそんな「忖度」「配慮」みたいなことをおっかなびっくりやるくらいだったら最初からキャラ立ちした「仮の主」なんか登場させず、さっきも書いたように4人の女子高生がひょんなことから……くらいで良かったんじゃないかと思いました。美味しそうな素材を見せられたのに出てきた料理がこれか……という失望がどうしてもあるし、そういうオタ的な感想を抜きにしてもこの物語の組み立て方はどう考えても一本の映画としておかしいと思う。というか単純に、要素を詰め込みすぎて時間内に処理できてないというのが真相な気もするので、そういう意味でも4人の女子高生がひょんなことからおもしれー女程度ので良かったんじゃないかと(しつこい)。

 

さんざん書いといてなんだが、“「刀剣乱舞ファンでもなんでもない俺だが思いのほか楽しめた」というのが基本ラインの感想” っていうのは、見た後に上記のようなことをぐるぐる考えること自体が楽しかったというメタ感想ではあるかなーと思う。最近はもう「よくできた作品」とかどうでもよいなーと思っているので、変なところがある作品こそが俺にとっては面白いんだよなという感じだ。齢45にもなって「ぼくって『変わってるね』ってよく言われるんですよーぜんぜんそんなつもりないのにー」みたいな十把一絡げの自意識過剰ボーイのマインドに近付いていると言えよう。だがそれも人生であり、従容として受け入れるべきである。そうか。そうだ。そうであるか。そうであった。

*1:原作ゲームはほぼまったく触れていない。でも舞台(いわゆる刀ステと刀ミュ)は映像でだけど何本か見ている。

*2:俺はこの用語嫌いなので使うときは基本的にカッコ付きです。

*3:そういう意味では前作『映画刀剣乱舞-継承-』での「審神者」の描き方は実にスマートかつ映画の物語と不可分の存在になっていて見事だった。さすがは小林靖子というべきか。

GMOコインのラジオCMの虚無っぷりはちょっと気になる

https://www.youtube.com/watch?v=oVo2ZIIQAhk より

 

最近TBSラジオあたりを聴いてるとよく流れるGMOコインのラジオCMがすごい。同社の今流れてるテレビCMから音声だけを抜き出してるのだが、「ジージージーエムオー、ジーエムオー、コイン!(フッフッフー!)」「スギちゃんだぜぇー、ワイルドだろぉ?」という会社に関しても提供サービスについても何も説明していない音声が流れ、後は暗号資産取引の注意事項に関するアナウンスが流れるだけ。注意事項部分がCM全体の半分くらいの尺を取っているので、本当に情報量が少ない。

ちなみにテレビCMはこんな感じ。映像のノリと勢いだけで見せる中毒性狙いのイメージCM的なものでそもそも具体的な情報量は少ないのだが、ここから音声だけを抜き出すとほとんど何も残らない。ついでに言えば、契約の関係か抜き出されてるのはスギちゃんだけでアンジェラ芽衣は省略されているので、掛け合いにもなっていない。

 

 

注意事項部分はたぶん何かの自主ガイドラインとか経産省通達とかで必ず広告内で告知しないといけない情報なのだろうが(薬のCMのように)、テレビCMだと最後にテキストずらずら流した画面一枚挟めばいいところをラジオCMだと音声なのでそうはいかず、読み上げるぶんの尺を確保しないといけない。そのためPRに割ける時間が少ししか残らず、ラジオ用の独自音声素材もないので結果として虚無のCMになった、みたいな感じだろうか。よくわかんないけど。

だがその虚無っぺえ感じ(と音声それ自体としては無闇矢鱈と景気がいい感じ)が暗号資産ビジネスそのものに漂う虚無いイキフンへの意図せざる批評性を帯びてしまっているようにも思えるのだ。思えるのだーダッダッダン。そういえば一昨年あたりに同じくラジオで流れまくっていたオッズパークのCMでも似たような感想を持った。

 

 

こっちも構造としてはGMOコインと同じだ。テレビCMは「妙にクセになる」狙いのサービス名連呼刷り込み型の作りで、ラジオCMはその素材から抜き出した音で再構成したもの。ただし、GMOコインとは違って注意事項読み上げみたいのはないから、内容と尺はテレビとラジオでほぼ変わらない。

で、このCM、テレビで(つまり映像で)見るとそこまでは気にならないんだけど、ほぼ同じ内容のはずのラジオCM版を聴くと、安っぽく狂騒的なパーティ感にクラックラするのだった。オーッズオッズオッズ…という女性複数のコールが、バニラの街宣カーのような倫理観低めのプレジャーバイブスを意図せず生み出してしまっているようで味わい深かった。

 

まあそれはそれとして、こんな虚無っぽいラジオCMで大丈夫なのかと問われれば、このCMとは別にGMOコインはラジオ番組へのペイドパブ(番組内の1コーナーだけスポンサードして暗号通貨関係の話題を取り扱ってもらったり、のような)もやっているようなので、それとセットでということなんだろう。

ラジオリスナーってわりと、番組単位で聴くというより同じ局を流しっぱなしにしてることが多いので(お店や職場などで流す場合は特に)、どっかの番組でペイドパブやって違う時間帯のスポットで社名/サービス連呼のCMやって……という感じでもそれなりに連動効果はあるということなのかもしれない。よく知らんけど。

『今朝もあの子の夢を見た』/「どちらの側」に転がっていくのか

https://yomitai.jp/series/anokonoyume/ より

山本タカシ、42歳、バツイチ、ひとり暮らし。コーヒーを淹れ、簡単な朝食をとり、洗濯をして仕事へ。仕事だけの日々が続く中、今日もまた起伏のない一日が始まる――。大反響、ロングセラーの手塚治虫文化賞受賞作『妻が口をきいてくれません』発売から一年。満を持しての新連載開始!

 

野原広子『今朝もあの子の夢を見た』はある意味で今もっともスリリングなWeb連載マンガのひとつだと思う(集英社のWebメディア「よみタイ」で現在=2022年7月初頭時点で11話まで公開中)。

そのスリリングさの理由は、この作品がテーマとしているのが、ある「社会問題」*1だからだ。より正確に言うならばその「社会問題」を巡る言説のある種の陰謀論的不穏さと政治的偏りこそが原因となっている。

しかしここで、この作品が何を主題としているのかについては敢えて明言しない。アンタッチャブルなイシューであるから、というわけではなく、単純に何も前提知識を持たずに読み始めたほうが楽しめるからである。たぶん、本作作者の作風や件の「社会問題」について本当に何も知らず、この作品を読み始めても検索して調べたりしない人のほうが、今後の展開を十全に楽しめる、ということになるのではないかと思う(楽しめる、というのは作品の狙い通りに翻弄されることになる、ということだが)。

 

テーマについてこの記事で敢えて明言しないのにはもう一つわけがあって、本作の序盤において主題は巧妙にぼかされている。バツイチ独居中年男性の静かな日々のスケッチが淡々と綴られ、そこに男性より少し若い女性が登場する。この二人の間の関係性が少しずつ変化していく……というような、一見すると「穏やか」「優しい」という形容が似合うような物語だ。しかし、ある種の違和感はジャブのように着実に打ち出されている。

「何を題材としているのか」がはっきり作中で明示されるのは今公開されている話数(11話)のちょうど半分くらいのあたりなのだが、ここからが真にスリリングなのだ。どうスリリングなのか……それは、この物語がこれから「どちらの側」に転がっていくのか、予断を許さないという点にある。どちらの側……つまり、件の「社会問題」に対する態度として「どちら」の立場を取るのか、ということだ。

現時点で公開されているエピソードまででは、概ね一方の側に「寄り添った」物語になっている。しかし巧妙なのは、本作の語り手/視点人物が「一人ではない」という点だ。もし視点人物が一人ならば、それはある種のクリシェ、語り=騙りの類型としてどのような展開が待っているのかの予想がつく。いわゆる「信頼できない語り手」というやつだ。しかしそこにもう1人、ある程度まで同情的ではあるが若干の違和感も感じている第三者の語り手/視点人物が加わると、どちらに傾くのかが不明瞭になっていく。たぶんそうなるであろうけど、しかしそれからまたどうなるのだろうか……という宙吊り状態のまま(この「社会問題」の事情を知っている)読者は放置されるのだ。まさにスリル&サスペンスと言えるだろう。

 

ところで――たぶんこれは作り手/送り手たちの計算のうちだと思うのだが――まさに今SNSでこの作品をレコメンドしている読者の声は、はっきりと二つの層に分かれている。そして片方の層は、この「社会問題」を象徴する「ある特徴的な用語」をハッシュタグにしてこの作品を褒め称えている。

これらの「読者の声」が今後どのようになっていくのか、それが最もスリリングな点かもしれない。あとでまとめ読みするより、「今」読んでおいたほうがいいタイプの作品。

 

*1:カッコ付きであることに留意されたい。

90年代中盤のダイナミズム

ラジオから藤井隆プロデュースでフットボールアワー後藤輝基が出すカバーアルバムのMixが流れてきていい感じだったんだけど、途中で「カーニバルは終わらない」という印象的なサビの曲があり、この曲知ってるんだけど元はなんだったっけ……と即ググった。宝生舞「Carnival」(1997)だった。さすが女優の唄う曲に深い思い入れのある藤井隆ディレクションだ……。

 



この曲は当時どこで聴いたのだったか。そもそも宝生舞がCDを出していたことを忘れていたのだから、曲だけどこかで流れてきたのを聴いたのだろうか*1YouTubeの映像は「HEY!HEY!HEY!」でのものかな。匂い立つような1997年の空気感だが、宝生舞かっこいいな!

 


1994年にはこんなだった宝生舞が、1997年にはあんな尋常ではないかっこよさとダルさを身に纏う、これこそが90年代中盤のダイナミズムや! という感じだ。

思わず続けてYouTubeから貼ってしまうが、

 

 

1994年にこんな感じで多幸感溢れるアイドル歌謡広瀬香美/筒美京平)だった内田有紀が、次の年には

 

 

「90年代」のカリカチュアじみてコムロナイズされていくのもまた90年代中盤のダイナミズムという感じである。

というか、ベタな話ではあるけど1994年までと95年以降では明らかにそこで空気感が変わってしまう、というのはやはり同時代の記憶としてもそうだし当時のこういう映像を振り返ってみてもそう感じるものはあるな。90年から94年まではバブル景気末期〜その残滓・残り香があり、浮ついた空気というか、風邪の治りかけの微熱のせいで根拠のない楽観主義みたいのを抱いているような気分というか、まあなんかそういうのを、今の目線からは感じることがある。

これくらいの時代のフジテレビの若者向けドラマをCSとかU局で再放送しているのをけっこう見てしまうのだが、まあ、なんとも言えない気分で胸が一杯になってしまうんだよね。たとえば『いつも誰かに恋してるッ』(90年1月-3月)と『いつか誰かと朝帰りッ』(90年10月-12月)とか、「ボクたちのドラマシリーズ」(92年、93-94年)の諸作とか、『じゃじゃ馬ならし』(93年7月-9月)とか。

この流れでいくと当然ながら『17才-at seventeen-』(94年4月-9月)がまた見たいのだが、これは未成年の飲酒・喫煙シーンがガンガン出てくるドラマなので(いわゆる「不良行為」的な描き方ではなく、ごく自然に飲酒・喫煙する)当時も普通に問題になってたしその後ソフト化も再放送もされていないっぽいのでやっぱさすがに難しいのかな。楽しいドラマだったと思うんですけどね。

*1:調べたら日テレの深夜ドラマ枠「Shin-D」のエンディングテーマだったらしいが、その枠のどれかの作品のEDだったのか枠共通のEDだったのか判然としないし、俺はその枠のドラマを見ていた記憶がない。

マルイと丸井今井

https://www.0101.co.jp/ より

 

マルイのロゴ「○I○I」を「オイオイ」と読んでいた、というあるあるネタのようなものを最近どこかで見かけた。どこだったのか思い出せないのがなんというか年を取ってしまったなという感じだが、それと別に思い出したことがあるのでメモしておく。

 

北海道ローカルの老舗百貨店に「丸井今井(まるい・いまい)」という店がある。本州のファッションビル「マルイ」とはまったく関連のない企業だ。90年代末頃までは北海道全域のいくつもの都市に店を構え、クレジットカード事業も行っていたりして道内の百貨店としては圧倒的な知名度があった。日常会話の中では正式名称の「丸井今井」とフルネームで呼ばれることはほとんどなく、短縮した「丸井」、もしくは「丸井さん」という愛称で呼ばれることが多かったと記憶している。

俺は1996年に北海道から上京したのだが、上京してからも新宿などにある「マルイ」は北海道の「丸井今井」と同じデパートである、と勘違いしていた。ここまでだったら当時の北海道出身者の上京あるあるネタだが、たぶんほとんどの道民は実際にマルイに足を運んだり、看板を見れば「丸井今井」とは違うデパートだと気づくはずだ。

何しろ東京のマルイと北海道の丸井今井とでは、看板のロゴマークがまったく違う。東京のマルイは例の「○I○I」なのに対し、丸井今井ロゴマークは大きな円い輪の中に漢字の「井」が入った昔ながらの屋号か、もしくは丸井今井のイニシャル「M」をリボンのようなイメージでデザインしたロゴの下に漢字もしくはアルファベットで「丸井今井/marui imai」と入っているもので、まったく似ても似つかないのだ。

 

http://www.imhds.co.jp/company/history_maruiimai.html より

 

多くの北海道出身者はこのロゴマークの違いで自分の勘違いに気づくと思う。しかし俺は東京のマルイのロゴマークを見て

「さすがは丸井さん、東京では都会風でモダンなロゴデザインに変えているんだな。ターゲットにしている客層も若者中心みたいだし、ブランド戦略も柔軟に変更していく、というわけですか……」

と、一人合点していたのだった。また、東京のマルイの「○I○I」という、一見して読み方がわからないロゴも、「まる・い(○I)」と「い・ま・い(I○I)」の読みを合体して抽象化したデザインなんだな、と勝手に納得していた。

2004年に吹石一恵がマルイのイメージキャラクターになったCMが流れてちょっと話題になったと思うのだけど、その頃に帰省して丸井さんに行ったときに「あれ、こっちでは吹石一恵のポスターとか店頭ディスプレイがないんだな」とちょっと訝しんだのは覚えている。

 

96年に上京して以来ずっと勘違いしていて、やっと気づいたのは2009年になってからだ。その年、北海道の丸井今井が経営不振から倒産し、三越伊勢丹ホールディングス傘下で事業再建を行うことになったというニュースが報じられた。俺は職場で日経新聞を片手に「丸井さんも大変だなあ、新宿のマルイもどうなるんだろうね? 伊勢丹がすぐ目の前にあるから、一緒になったりするのかな?」と、同じく北海道出身者の同僚に話し、えらくバカにされたものだった。

上京以来、そのときまで13年間、マルイの店舗に行ったことも何度かあったのに、1ミリたりとも自分の思い違いを疑ったことはなかった。そういう思い込みの恐ろしさというのはあるのだ、ということは折に触れて警鐘を鳴らしていきたい(個人的などうでもいいことを大仰にまとめる結び)。