NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

GMOコインのラジオCMの虚無っぷりはちょっと気になる

https://www.youtube.com/watch?v=oVo2ZIIQAhk より

 

最近TBSラジオあたりを聴いてるとよく流れるGMOコインのラジオCMがすごい。同社の今流れてるテレビCMから音声だけを抜き出してるのだが、「ジージージーエムオー、ジーエムオー、コイン!(フッフッフー!)」「スギちゃんだぜぇー、ワイルドだろぉ?」という会社に関しても提供サービスについても何も説明していない音声が流れ、後は暗号資産取引の注意事項に関するアナウンスが流れるだけ。注意事項部分がCM全体の半分くらいの尺を取っているので、本当に情報量が少ない。

ちなみにテレビCMはこんな感じ。映像のノリと勢いだけで見せる中毒性狙いのイメージCM的なものでそもそも具体的な情報量は少ないのだが、ここから音声だけを抜き出すとほとんど何も残らない。ついでに言えば、契約の関係か抜き出されてるのはスギちゃんだけでアンジェラ芽衣は省略されているので、掛け合いにもなっていない。

 

 

注意事項部分はたぶん何かの自主ガイドラインとか経産省通達とかで必ず広告内で告知しないといけない情報なのだろうが(薬のCMのように)、テレビCMだと最後にテキストずらずら流した画面一枚挟めばいいところをラジオCMだと音声なのでそうはいかず、読み上げるぶんの尺を確保しないといけない。そのためPRに割ける時間が少ししか残らず、ラジオ用の独自音声素材もないので結果として虚無のCMになった、みたいな感じだろうか。よくわかんないけど。

だがその虚無っぺえ感じ(と音声それ自体としては無闇矢鱈と景気がいい感じ)が暗号資産ビジネスそのものに漂う虚無いイキフンへの意図せざる批評性を帯びてしまっているようにも思えるのだ。思えるのだーダッダッダン。そういえば一昨年あたりに同じくラジオで流れまくっていたオッズパークのCMでも似たような感想を持った。

 

 

こっちも構造としてはGMOコインと同じだ。テレビCMは「妙にクセになる」狙いのサービス名連呼刷り込み型の作りで、ラジオCMはその素材から抜き出した音で再構成したもの。ただし、GMOコインとは違って注意事項読み上げみたいのはないから、内容と尺はテレビとラジオでほぼ変わらない。

で、このCM、テレビで(つまり映像で)見るとそこまでは気にならないんだけど、ほぼ同じ内容のはずのラジオCM版を聴くと、安っぽく狂騒的なパーティ感にクラックラするのだった。オーッズオッズオッズ…という女性複数のコールが、バニラの街宣カーのような倫理観低めのプレジャーバイブスを意図せず生み出してしまっているようで味わい深かった。

 

まあそれはそれとして、こんな虚無っぽいラジオCMで大丈夫なのかと問われれば、このCMとは別にGMOコインはラジオ番組へのペイドパブ(番組内の1コーナーだけスポンサードして暗号通貨関係の話題を取り扱ってもらったり、のような)もやっているようなので、それとセットでということなんだろう。

ラジオリスナーってわりと、番組単位で聴くというより同じ局を流しっぱなしにしてることが多いので(お店や職場などで流す場合は特に)、どっかの番組でペイドパブやって違う時間帯のスポットで社名/サービス連呼のCMやって……という感じでもそれなりに連動効果はあるということなのかもしれない。よく知らんけど。

『今朝もあの子の夢を見た』/「どちらの側」に転がっていくのか

https://yomitai.jp/series/anokonoyume/ より

山本タカシ、42歳、バツイチ、ひとり暮らし。コーヒーを淹れ、簡単な朝食をとり、洗濯をして仕事へ。仕事だけの日々が続く中、今日もまた起伏のない一日が始まる――。大反響、ロングセラーの手塚治虫文化賞受賞作『妻が口をきいてくれません』発売から一年。満を持しての新連載開始!

 

野原広子『今朝もあの子の夢を見た』はある意味で今もっともスリリングなWeb連載マンガのひとつだと思う(集英社のWebメディア「よみタイ」で現在=2022年7月初頭時点で11話まで公開中)。

そのスリリングさの理由は、この作品がテーマとしているのが、ある「社会問題」*1だからだ。より正確に言うならばその「社会問題」を巡る言説のある種の陰謀論的不穏さと政治的偏りこそが原因となっている。

しかしここで、この作品が何を主題としているのかについては敢えて明言しない。アンタッチャブルなイシューであるから、というわけではなく、単純に何も前提知識を持たずに読み始めたほうが楽しめるからである。たぶん、本作作者の作風や件の「社会問題」について本当に何も知らず、この作品を読み始めても検索して調べたりしない人のほうが、今後の展開を十全に楽しめる、ということになるのではないかと思う(楽しめる、というのは作品の狙い通りに翻弄されることになる、ということだが)。

 

テーマについてこの記事で敢えて明言しないのにはもう一つわけがあって、本作の序盤において主題は巧妙にぼかされている。バツイチ独居中年男性の静かな日々のスケッチが淡々と綴られ、そこに男性より少し若い女性が登場する。この二人の間の関係性が少しずつ変化していく……というような、一見すると「穏やか」「優しい」という形容が似合うような物語だ。しかし、ある種の違和感はジャブのように着実に打ち出されている。

「何を題材としているのか」がはっきり作中で明示されるのは今公開されている話数(11話)のちょうど半分くらいのあたりなのだが、ここからが真にスリリングなのだ。どうスリリングなのか……それは、この物語がこれから「どちらの側」に転がっていくのか、予断を許さないという点にある。どちらの側……つまり、件の「社会問題」に対する態度として「どちら」の立場を取るのか、ということだ。

現時点で公開されているエピソードまででは、概ね一方の側に「寄り添った」物語になっている。しかし巧妙なのは、本作の語り手/視点人物が「一人ではない」という点だ。もし視点人物が一人ならば、それはある種のクリシェ、語り=騙りの類型としてどのような展開が待っているのかの予想がつく。いわゆる「信頼できない語り手」というやつだ。しかしそこにもう1人、ある程度まで同情的ではあるが若干の違和感も感じている第三者の語り手/視点人物が加わると、どちらに傾くのかが不明瞭になっていく。たぶんそうなるであろうけど、しかしそれからまたどうなるのだろうか……という宙吊り状態のまま(この「社会問題」の事情を知っている)読者は放置されるのだ。まさにスリル&サスペンスと言えるだろう。

 

ところで――たぶんこれは作り手/送り手たちの計算のうちだと思うのだが――まさに今SNSでこの作品をレコメンドしている読者の声は、はっきりと二つの層に分かれている。そして片方の層は、この「社会問題」を象徴する「ある特徴的な用語」をハッシュタグにしてこの作品を褒め称えている。

これらの「読者の声」が今後どのようになっていくのか、それが最もスリリングな点かもしれない。あとでまとめ読みするより、「今」読んでおいたほうがいいタイプの作品。

 

*1:カッコ付きであることに留意されたい。

90年代中盤のダイナミズム

ラジオから藤井隆プロデュースでフットボールアワー後藤輝基が出すカバーアルバムのMixが流れてきていい感じだったんだけど、途中で「カーニバルは終わらない」という印象的なサビの曲があり、この曲知ってるんだけど元はなんだったっけ……と即ググった。宝生舞「Carnival」(1997)だった。さすが女優の唄う曲に深い思い入れのある藤井隆ディレクションだ……。

 



この曲は当時どこで聴いたのだったか。そもそも宝生舞がCDを出していたことを忘れていたのだから、曲だけどこかで流れてきたのを聴いたのだろうか*1YouTubeの映像は「HEY!HEY!HEY!」でのものかな。匂い立つような1997年の空気感だが、宝生舞かっこいいな!

 


1994年にはこんなだった宝生舞が、1997年にはあんな尋常ではないかっこよさとダルさを身に纏う、これこそが90年代中盤のダイナミズムや! という感じだ。

思わず続けてYouTubeから貼ってしまうが、

 

 

1994年にこんな感じで多幸感溢れるアイドル歌謡広瀬香美/筒美京平)だった内田有紀が、次の年には

 

 

「90年代」のカリカチュアじみてコムロナイズされていくのもまた90年代中盤のダイナミズムという感じである。

というか、ベタな話ではあるけど1994年までと95年以降では明らかにそこで空気感が変わってしまう、というのはやはり同時代の記憶としてもそうだし当時のこういう映像を振り返ってみてもそう感じるものはあるな。90年から94年まではバブル景気末期〜その残滓・残り香があり、浮ついた空気というか、風邪の治りかけの微熱のせいで根拠のない楽観主義みたいのを抱いているような気分というか、まあなんかそういうのを、今の目線からは感じることがある。

これくらいの時代のフジテレビの若者向けドラマをCSとかU局で再放送しているのをけっこう見てしまうのだが、まあ、なんとも言えない気分で胸が一杯になってしまうんだよね。たとえば『いつも誰かに恋してるッ』(90年1月-3月)と『いつか誰かと朝帰りッ』(90年10月-12月)とか、「ボクたちのドラマシリーズ」(92年、93-94年)の諸作とか、『じゃじゃ馬ならし』(93年7月-9月)とか。

この流れでいくと当然ながら『17才-at seventeen-』(94年4月-9月)がまた見たいのだが、これは未成年の飲酒・喫煙シーンがガンガン出てくるドラマなので(いわゆる「不良行為」的な描き方ではなく、ごく自然に飲酒・喫煙する)当時も普通に問題になってたしその後ソフト化も再放送もされていないっぽいのでやっぱさすがに難しいのかな。楽しいドラマだったと思うんですけどね。

*1:調べたら日テレの深夜ドラマ枠「Shin-D」のエンディングテーマだったらしいが、その枠のどれかの作品のEDだったのか枠共通のEDだったのか判然としないし、俺はその枠のドラマを見ていた記憶がない。

マルイと丸井今井

https://www.0101.co.jp/ より

 

マルイのロゴ「○I○I」を「オイオイ」と読んでいた、というあるあるネタのようなものを最近どこかで見かけた。どこだったのか思い出せないのがなんというか年を取ってしまったなという感じだが、それと別に思い出したことがあるのでメモしておく。

 

北海道ローカルの老舗百貨店に「丸井今井(まるい・いまい)」という店がある。本州のファッションビル「マルイ」とはまったく関連のない企業だ。90年代末頃までは北海道全域のいくつもの都市に店を構え、クレジットカード事業も行っていたりして道内の百貨店としては圧倒的な知名度があった。日常会話の中では正式名称の「丸井今井」とフルネームで呼ばれることはほとんどなく、短縮した「丸井」、もしくは「丸井さん」という愛称で呼ばれることが多かったと記憶している。

俺は1996年に北海道から上京したのだが、上京してからも新宿などにある「マルイ」は北海道の「丸井今井」と同じデパートである、と勘違いしていた。ここまでだったら当時の北海道出身者の上京あるあるネタだが、たぶんほとんどの道民は実際にマルイに足を運んだり、看板を見れば「丸井今井」とは違うデパートだと気づくはずだ。

何しろ東京のマルイと北海道の丸井今井とでは、看板のロゴマークがまったく違う。東京のマルイは例の「○I○I」なのに対し、丸井今井ロゴマークは大きな円い輪の中に漢字の「井」が入った昔ながらの屋号か、もしくは丸井今井のイニシャル「M」をリボンのようなイメージでデザインしたロゴの下に漢字もしくはアルファベットで「丸井今井/marui imai」と入っているもので、まったく似ても似つかないのだ。

 

http://www.imhds.co.jp/company/history_maruiimai.html より

 

多くの北海道出身者はこのロゴマークの違いで自分の勘違いに気づくと思う。しかし俺は東京のマルイのロゴマークを見て

「さすがは丸井さん、東京では都会風でモダンなロゴデザインに変えているんだな。ターゲットにしている客層も若者中心みたいだし、ブランド戦略も柔軟に変更していく、というわけですか……」

と、一人合点していたのだった。また、東京のマルイの「○I○I」という、一見して読み方がわからないロゴも、「まる・い(○I)」と「い・ま・い(I○I)」の読みを合体して抽象化したデザインなんだな、と勝手に納得していた。

2004年に吹石一恵がマルイのイメージキャラクターになったCMが流れてちょっと話題になったと思うのだけど、その頃に帰省して丸井さんに行ったときに「あれ、こっちでは吹石一恵のポスターとか店頭ディスプレイがないんだな」とちょっと訝しんだのは覚えている。

 

96年に上京して以来ずっと勘違いしていて、やっと気づいたのは2009年になってからだ。その年、北海道の丸井今井が経営不振から倒産し、三越伊勢丹ホールディングス傘下で事業再建を行うことになったというニュースが報じられた。俺は職場で日経新聞を片手に「丸井さんも大変だなあ、新宿のマルイもどうなるんだろうね? 伊勢丹がすぐ目の前にあるから、一緒になったりするのかな?」と、同じく北海道出身者の同僚に話し、えらくバカにされたものだった。

上京以来、そのときまで13年間、マルイの店舗に行ったことも何度かあったのに、1ミリたりとも自分の思い違いを疑ったことはなかった。そういう思い込みの恐ろしさというのはあるのだ、ということは折に触れて警鐘を鳴らしていきたい(個人的などうでもいいことを大仰にまとめる結び)。

『トップガン マーヴェリック』/最高練度のウェルメイド

https://topgunmovie.jp/

トップガン マーヴェリック』を見てきたよ。IMAXで。大スターが金をかけ、スタッフも役者陣もその意気に応えて最高の練度で作った「ウェルメイド」、って感じで、まあー実に楽しい一本だった。良かったよかった。

良かったんだけど、本作が良すぎたからか若干の歴史修正を(無意識に)行っている人がいるのがちょっと気になる。たぶん俺と同世代くらいであろう映画好きの人が『~マーヴェリック』の流れで1986年の前作『トップガン』をあたかも名作かのように語る場面を何度か見た。いやー全然そんなことないでしょーだいぶゆるゆるの映画でしょーと思うんだがな。

それは今の目から見てゆるゆるってこともあるんだが、当時の、同時代の観客の感覚としても「ハリウッドのヤングスター映画(=アイドル映画)」としての魅力と影響力は多大にあるけどそういう文脈から独立して生き残るタイプの映画ではないよねという空気感はあったと記憶している。でも、そういう映画であったとしてもあたかも名作であったかのように歴史/記憶を塗り替えしてしまうくらいの力が『~マーヴェリック』にはあったのだ、ということなのかもしれない。それならそれで俺が文句を言うようなことではないが(個人的にはそこまでの感心はしなかったので)。

 

さて、念のため『~マーヴェリック』の予習もかねて前作『トップガン』を改めて見返してみたけど、トニー・スコットの映画としてもちょっとこれは今見てそんなに良いところはないなとは思った。翌年の『ビバリーヒルズ・コップ2』がお話はダルダルなのに映像と編集のセンスだけで見せきってしまうのとは対称的な平凡さだ。

特に中盤のケリー・マクギリスとトム・クルーズのラブシーン(に至るまで)の流れはどう見ても妙で、「愛は吐息のように」がしつこくリフレインされるところも含めて今見ると非常にキッチュな80'sという味わいがある(し、これは当時もわりと変だと受け取られてたと思う。パロディのネタにされがちでしたよね)。

 

そういう意味では、『~マーヴェリック』中盤のトムとジェニファー・コネリーのラブシーンのなんか不思議なショットの繋ぎ(二人の顔が横に並んでて、なんかジャンプカットっぽく時間が経過しているのか、よくわかんないけどトムだけどんどん脱いでいく、あとなんかキラキラしたエフェクトが入る)、あの不思議な感じは前作のラブシーンに通じるものがあり、全体的にカチッとした『~マーヴェリック』の中でも例外的にバランスを欠いたシーンだ。むしろちょっと魅力的ですらある。あそこで「愛は吐息のように」のイントロだけしつこくリフレインされたら面白かったがそこまでやると『ホット・ショット』になっちゃうな。

ほとんどすべての観客が褒めているように、訓練/空戦シーンはどれも素晴らしかったけど、冒頭の極超音速機「ダークスター」(ワンカットだけ機体にペイントされたスカンクワークスのロゴをはっきりと捉えたショットがあるが、なんとちゃんとロッキード・マーチンのスカンクワークスにデザインしてもらっているという!)のテスト飛行のくだりは良かった……というか、え、あの『トップガン』を『ライトスタッフ』のような物語に読み替えるのか!という興奮があった。

だがそうはならず(そりゃそうだ)、前作の流れをほぼそのまま踏襲しながらも主人公の立ち位置を変えることで男が老いとどう向き合うか、そして若い世代に何を継承するか、というハリウッド映画の優等生的な物語に落とし込む。でも演じるのはトム・クルーズなので(さらに付き合っている彼女は現在のケリー・マクギリスではなくジェニファー・コネリーなので)別にリアルな話にはならないしそんなものは誰も期待していないのでこれは別にいい。そういうところはアイスマンヴァル・キルマーが一手に引き受けていて、ここはけっこうしんみりしてしまった(ヴァル・キルマー本人の咽頭癌の件もあり)。

若い世代に何を継承するか的なテーマには「いつかこんな無茶は辞めざるを得ないときが来るけど今日はまだその時じゃない、今回も俺が先頭切って一番の無茶をするからな! お前らに付いてこれるか?」的に煽って若い奴らもウォウウォウそれに応えるという感じでやってたので、まあなんかそんな感じだ。

これはトム・クルーズの映画であり、つまり別に普遍的なことを描くことには一切興味がない、あくまで「トム・クルーズにとっての『老い』への向き合い方」の映画なので別にそれでいいんだが。……ここは重要なことなので重ねて言うが、別にそれでいいのであり、正しいのだ。スターの映画とはそういうものであり、そのように映画を私物化、否、私小説化することこそがスターの存在意義なのである。そしてこの映画においてトム・クルーズが語る私小説はあまりにも健全で真っ当で優等生的に「トム・クルーズに期待されていること」を反映していて、正直なところ俺にはそれがちょっと物足りなかったのだった。

だから、冒頭の極超音速機テスト飛行シークェンスを見たときに俺が勝手に幻視してしまったような、マーヴェリック=トム・クルーズが己の老いとある種の狂気を自覚しながら、孤独に、それでも己の中にある「正しい資質」に殉じるかのように音速の向こう側、彼岸の世界へと突き抜けていく、そんな私小説というよりも「遺書」のような物語を見たかったというのはある。あるけど、さすがにまだそこまでトムは年取ってないよね。俺が先走りすぎただけだな。

極超音速テスト、実際の冒頭のパートではあっさりとマッハ10への到達成功!→さすがだぜマーヴェリック!→だが俺はーさらにーやっちゃうぞー!→マジかよ……信じらんねえ……ってなってオチついてサクッと次に移るの、まさにトム・クルーズの映画の手つきって感じでそれはそれで楽しいんだけどね。

 

さて、映画そのものとは若干ズレる話だが、見に行く前からなんとなくそんな予感はしていたんだけど、SNSの映画クラスタと呼ばれるような界隈の人たちはこういう立ち位置の作品をちょっとデカい言葉で褒めすぎだよなーというのは今回もまた感じた。SNSで通りが良くなるように感想を最適化していった結果、大仰な褒め or 倫理的繊細さの感情的な表明でアテンションを集めるタイプの言説ばかりが目立つようになっていて(目立つように書かれているのだから当たり前だが)、いやーほんとあの界隈の感想は信用できんわーという思いを新たにしました。