NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

『映画刀剣乱舞-黎明-』/審神者については、沈黙しなければならない

「ハリウッド・スケールで描かれるアクション・エンタテインメント大作!」
っていうポスターキャッチコピーはさすがに盛りすぎでは?とは思う。
https://touken-the-movie.jp/

 

人に連れられ『映画刀剣乱舞-黎明-』を見た。基本的には刀剣乱舞ファン向け以上でも以下でもない「閉じた作品」と言ってしまっていいだろう。いわゆる「ファンムービー」だ。そして俺は『刀剣乱舞』に関してまったくファンではない*1

『刀剣乱舞』IPの商品展開としては「ファンムービー」であって何が悪いという感じだろうし、ファンではない俺が何か口を挟むことではないだろう。

だが、映画での前作(物語的なコンティニュイティは薄い)にあたる『映画刀剣乱舞-継承-』が歴史改変SFとしてプロパーのファン以外にも楽しんでもらおうという気概を感じる出来だったのに比べると、本作のそのありようはいかにも貧しい……と外野としてはお節介にも思うところである。

 

思うところではあるんだけど、だがしかし、ところどころにすごく良くなりそうな部分、というか惜しく感じるところがあって、そういう意味で個人的には思いのほか楽しめたと言える。見てるあいだ「んんん、いろいろ足りてないがその意気や良し!」とか思ってた。どういう高さの目線で見てるんだって話だが。

 

特に、まつろわぬ民たる大江山の酒呑童子が日の本へと放った呪詛・憤怒が、一千年後の現代の日本において都市の周縁で顧みられることのない貧困層の少年の慟哭と共鳴し、廃墟のような集合住宅(本作において群を抜いて素晴らしいロケーション!)から放たれた怨嗟の波動が東京を、京都を、日本全国を次々に浸食し、ほぼすべての日本国民の自我・意識を奪うという中盤の展開はとても良かった。寄る辺なき一隅で起こったハプニングが指数関数的にエスカレーションして巨大な事態となる……という、ある種の逸脱したジャンル映画に見られる恐怖のダイナミズム、デモーニッシュなスペクタクル――高橋洋言うところの「映画の魔」のような――になり得る瞬間が本作のあの一連のシークェンスには確かにあったと思う。

映画の魔

映画の魔

Amazon

 

まあそれは俺の一方的な思い込みかもしれない。この映画で描かれる「日の本への呪詛・憤怒」も「貧困の風景」もそこで絞り出される「慟哭」も、どれもが本気ではない「いわゆるそういうやつ」という軽薄な語り口であることを隠しきれていないし、肝心のところで薄っぺらいイメージ映像としてモンタージュ処理されるのはさすがにどうかと思った。

だがしかしそれはそれとして、あのシーンの廃墟じみつつもべったり染みついた生活感のある集合住宅のロケーションは素晴らしかったな。フィクション濃度の高い(それこそ2.5次元な)刀剣男士をあの生のリアル感がある場所に立たせる異化効果は強烈だった。そこは掛け値無しにとても良かった。

調べたところ、ロケ場所は埼玉県富士見市の鶴瀬駅前にあった「富士ビル」というところだったようだ。「あった」というとおり、昨年(2022年)末に解体されてしまったとのこと。うわーすごいタイミングで映画に使えたんだな。

 

 

ただ、そこで繰り広げられるアクションはもう少し頑張ったのを見せてほしかった。ここに限らず、アクションシーン全般がどうも今ひとつふたつくらい惜しい。富士ビルのシーンの前に展開される、廃工場みたいなとこで繰り広げられる三つ巴の剣戟アクションは、台詞回しもファイトコレオグラフもキメキメなんだけどなんか絵としてのレイアウトとか編集のリズム的に間が抜けたとこがあってとても残念だった……というかアクションシーンに限らず、なんかキメ絵になるはずのシーンで妙に間の抜けたショットが出てくることが多くて、うーんどうなんだこれとは思いました。そういうとこも含めて「惜しい」とこが多い映画だった。

 

さて……「刀剣乱舞ファンでもなんでもない俺だが思いのほか楽しめた」というのが基本ラインの感想なんだけど、とは言えこれはひどいなと思った点がひとつある。「仮の主(審神者)」たちの描き方、というか「描かれなさ」についてだ。

本作の物語において、いろいろあって未来から現代(2012年)に派遣された刀剣男士たちは未来にいる(本来の主であるところの)審神者との繋がりが断たれ、そのままではまったく力を発揮することができないどころか存在そのものを維持するのもままならない。そこで、刀剣男士の力を引き出す審神者の素養がある人物たちを「仮の主」とし、一時的な主従関係を結ぶ……という展開がある。

その仮の主というのが「女子高生」「ギャル」「内閣官房国家安全保障局の窓際役人」「神職の初老男性」……と、いかにも「これは面白くなりそう!」なキャラ付けで出てくるわけです。

 

女子高生(いわゆる主人公)

 

博多発東京行き高速バスに乗って刀剣男士と一緒にやって来るギャル

 

内閣官房国家安全保障局のダメ役人(この表情を覚えておいてください)

 

神職おじ


事前プロモーションで映画のストーリーが発表されたとき、この「仮の主」のキャラクター設定についてTwitterなんかではちょっと話題になってたと思う。俺の観測範囲内でのことなので大したサンプル数はないが、おおむね好意的な反応だったように記憶している。こういう、なんていうかオタクエンタメ一流の「面白くしまっせー!」的なキャラクター設定の盛り方(あるいは二次創作的想像力と言ってもいいかもしれん)、まあ、こんなんみんなだいたい好きだと思います。

戦いに特化した人外の存在と仮初めのバディになる、さまざまな背景を持った普通の、あるいは普通じゃない人々の群像劇、そんで伝奇アクション。

そんなんいくらでも面白く回せそうな気がするじゃないですか。燃える展開からほっこり日常経由のエモ哀しい別れまで、オタの好きなもん一通りべろんべろん舐めることできそうじゃないですか。仮の主全員があくまで刀剣男士を引き立てる脇の存在ではあるけどみんな美味しい役どころになりそうじゃないですか。作ってる人・演じる人・見てる人、みんなWin-Win-Winの三方一両ゲットで優勝じゃないですか。この設定で勝ち確みたいなもんじゃないですか。

 

ところがねー、この映画オリジナルキャラクターたちがねー、本当に一切、まったく、ひとかけらも活かされないんですね。

え、そんなことってあります?

 

面白く回そうとしたけどスベって失敗してる、だったらまだ分かる。違うんだなこれが。本作の場合は「回さない、回そうともしない」から本当にびっくりしちゃう。このバラエティ豊かな仮の主の人たち、登場して、ほんのちょっとの台詞で各刀剣男士と絡んで、後はただ棒立ちしてるだけ。本当に立ってるだけ。びびるよ。一切お話に絡んでこず、刀剣男士がピンチの際も励ますでもなくただ後ろに立って見てるだけ。本当にそれだけ。まじびびる。

 

これは公式サイトに掲載されているクライマックス近くの一場面。刀剣男士の後ろに仮の主のうち3人が棒立ちしてるのが見えますよね。たまたまそうなってる瞬間のスチルじゃなく、こんな距離感でずっと棒立ちです。後方腕組み彼氏面でさえない虚無の立ちです。

 

特に窓際役人のキャラクター描写(というか描写しなさ)がすごい。

初登場時には同僚に「あいつ入庁以来何してもダメな税金泥棒だったけど、実はこういう(刀剣男士絡みの)緊急事態に備えて採用されたらしいぜ」みたいな陰口を叩かれます。それってつまり、何か超常の力を(もしかしたら本人も気づかず)秘めていて、ゆえに無能でも雇われてたってことじゃないですか、そういう「展開」のためのわかりやすい伏線として置かれた台詞じゃないですか。

でもこいつ本当に何もしなくて、台詞もほぼなくて、仮の主としての刀剣男士との絡みもほぼ初登場時の短い会話だけなんですよ。なんかあったときにちょっと「驚き顔」をするだけの役なんですよ。最後までそれだけで、「展開」どころか本当に何もないんですよ。すごいですよこれ。

再掲・驚き顔

 

ギャルも神職おじも似たようなもんで、いや別になんか秘められた能力が覚醒してすごい異能アクションを……みたいなことまでは求めないけど(それはたぶんこの映画のメインの客層的には過剰な逸脱に見えると思うし)、でもほら、その「キャラ設定」を活かした刀剣男士との絡み、心の交流、そういうのを経てクライマックスの危機のところで、いわゆる〈アクション〉じゃなくそれまでの「関係性」からの何らかの〈行為〉で彼らを鼓舞したりサポートしたり、そういうのあると思うじゃん普通。

本当に何もないんだよなー。虚無。ナッシング。信じられるか? そんな作劇があるのか?

ほんとここだけはびっくりした。純粋にびっくりしたよ。

 

仮の主たちは「キャラ設定」しかなくて物語を駆動するパーツに一切組み込まれないから、別にギャルとか神職とかじゃなく、全員女子高生であったとしても特に問題ないんだよな。実際、女子高生の友人クラスメートが3人出てくるので、この4人が「ひょんなことから刀剣男士の仮の主に……!」みたいな設定であってもお話の本筋は変わらない。

刀剣乱舞のような、熱心なファンがたくさんいる「コンテンツ」「IP」の一展開である商品において、そのファン層とコンテンツキャラクターとの「関係性」の似姿となるような存在(まあつまり、刀剣乱舞の場合は原作ゲームにおける「プレイヤー=審神者」と同等となる存在)をオリジナルキャラクターとして登場させる場合、どのように処理するのか? 殊に現代のオタクエンタメ業界にとってはそれがけっこうセンシティブな問題で、制作側にとっては難しい意思決定だということはそれなりに理解できる。ちょっとファン層の空気を読み誤ったがゆえにいわゆる「炎上」*2してしまった事例は近々のものに絞ってもいくつか思い出せる。

だから本作における映画オリジナル審神者=仮の主たちの「何もしなさ」はそれらを踏まえた上での針の穴を通すような回答だったのかもしれない*3

でも、言わせてもらえばそんな「忖度」「配慮」みたいなことをおっかなびっくりやるくらいだったら最初からキャラ立ちした「仮の主」なんか登場させず、さっきも書いたように4人の女子高生がひょんなことから……くらいで良かったんじゃないかと思いました。美味しそうな素材を見せられたのに出てきた料理がこれか……という失望がどうしてもあるし、そういうオタ的な感想を抜きにしてもこの物語の組み立て方はどう考えても一本の映画としておかしいと思う。というか単純に、要素を詰め込みすぎて時間内に処理できてないというのが真相な気もするので、そういう意味でも4人の女子高生がひょんなことからおもしれー女程度ので良かったんじゃないかと(しつこい)。

 

さんざん書いといてなんだが、“「刀剣乱舞ファンでもなんでもない俺だが思いのほか楽しめた」というのが基本ラインの感想” っていうのは、見た後に上記のようなことをぐるぐる考えること自体が楽しかったというメタ感想ではあるかなーと思う。最近はもう「よくできた作品」とかどうでもよいなーと思っているので、変なところがある作品こそが俺にとっては面白いんだよなという感じだ。齢45にもなって「ぼくって『変わってるね』ってよく言われるんですよーぜんぜんそんなつもりないのにー」みたいな十把一絡げの自意識過剰ボーイのマインドに近付いていると言えよう。だがそれも人生であり、従容として受け入れるべきである。そうか。そうだ。そうであるか。そうであった。

*1:原作ゲームはほぼまったく触れていない。でも舞台(いわゆる刀ステと刀ミュ)は映像でだけど何本か見ている。

*2:俺はこの用語嫌いなので使うときは基本的にカッコ付きです。

*3:そういう意味では前作『映画刀剣乱舞-継承-』での「審神者」の描き方は実にスマートかつ映画の物語と不可分の存在になっていて見事だった。さすがは小林靖子というべきか。