NGM+その他の欲望

日々のサムシングについてのスクラップブック。

ガールフレンド・フロム・ヘル、そして寺田農のド変態インテリ悪役

いきなりこんな話をされても困ると思うが、ときどき「ガールフレンド・フロム・ヘル」というワードが頭の中にフラッシュバックすることがある。まあ、そんな話をいきなりされても困るとは思うが、とりあえず聞いてくれ。

これ、『ガールフレンド・フロム・ヘル』というタイトルのC級ホラーコメディ映画が80年代末にあったわけなんですが、俺はこの作品を見たおぼえがまったくない。ないんだが、テーマ曲だけは明らかにどこかで聴いたおぼえがあるのだ。なんだそりゃ。特にサビの「ガールフレンド・フロム・ヘール! ハッハー! Na-nanananana」みたいなところは確実に覚えている。どこで聴いたんだろうか。というか見たことあるのかこの映画。見たとしたらまあ、テレビの深夜映画枠なんだろうが、本当にまったく覚えがないんだよ。こんな映画なんですがね。

 

youtu.be

 

うーん、なんとも80年代末という感じだ。テーマ曲はこれ。

 

youtu.be

 

なんかこう、誰かがどこかでカバーしてそうな雰囲気はあるけど、この映画はアメリカのほうでも「カルト・クラシックとして今でも一部には有名」みたいな扱いでは別になくって単純に無名の映画みたいだし(そもそもアメリカでも劇場公開されてなくてビデオスルーだったようだ)。なんだろうこれ。

もしかしたら、当時レンタルビデオで見た他の映画の冒頭で予告編が流れたのを見たのかもしれない。それでテーマ曲の妙にキャッチーなサビの部分だけ頭に残っているのかも。いやわかんないな。やっぱり当時のTV深夜映画で見たのかな。

 

画像引用元:https://k-plus.biz/archives/29975

こちら当時のビデオジャケット。このジャケットにもあんまり覚えがないので、自分でレンタルして見たってことは多分ないはずなんだが……。

 

まあなんだかいろんなものがぼんやりしている。断片は確かに覚えているんだが、しかしその大元がなんだったのかはまったく思い出せない……ということがつい最近、もうひとつあった。

この3月に寺田農が亡くなってしまった。誰しも映画やドラマをある程度の本数見ていると、作品本編の面白さとは無関係に「この人が脇でちょっと出てくると何か得した気分になる」という役者ができるものだが、俺にとって寺田農はまさにそのようなバイプレイヤーの一人だったので悲しい。

で、寺田農というと俺はなんとなく「インテリのド変態悪役」を演じることが多いというイメージがあった。が、改めてフィルモグラフィーを振り返ると別にそうでもないんだよな。インテリの悪役はいっぱいあるけど、毎度毎度そこにド変態属性が付くかっていうと別にそんなことはない。ていうかむしろぜんぜんそんなことはない。何らかの昏い色気のようなものを感じさせる(悪)役、あるいは劇中で直接的に性的な行為をする役はすぐ挙げられるけど、でもやっぱり「変態」っていうのとは違う……。

 

上記のイメージはたぶん高校生くらいのときに見た何かの映画かVシネマでの役からきてるんだが、それが何という作品なのか思い出せない。ナチス将校風のコスプレして黒い口紅をした寺田農が、目隠し緊縛した女性の顔にグラスに入ったワインをツッと流しかけて「これは何かね?」「……おしっこです」と言わせるというシーンがあるやつ。こりゃど直球でド変態だわ。だがその作品が思い出せないのだ……こんな強烈なシーンがあるやつなのに……たぶん池田敏春のVシネマ関係か、あるいはその流れでの石井隆の何かか、もしくは実相寺昭雄のAV作品か……だが決定的なことは思い出せず、Blueskyのほうで「識者の情報を求む」と書いた。

親切な方々からいろいろ助言いただいて、改めてallcinemaで寺田農のフィルモグラフィーをひとつひとつ確認してたら……急に頭の靄が晴れて思い出した! 高橋伴明の『DOOR II Tokyo Diary』(1991)ですわ。filmarksに投稿されたレビューに件のシーンへの言及あるのでほぼ確定だと思う。たぶんTVの深夜映画枠でやってたのを見たんだろう。金曜ロードショーで『DOOR』一作目のほうを放映したときがあって、そのあとしばらくたってから深夜映画枠でやってたんじゃなかったかな確か。うーんこれですっきりだ。

『DOOR II Tokyo Diary』はVシネマで当時リリースされたきりDVD化等はされてなかったんだけど、ちょうど昨年、デジタルリマスター版が劇場公開されていた。YouTubeにUPされてる予告編でも件のシーンがちょっとだけ映っている。このタイミングでソフト化とか配信とかしないかな。

 

youtu.be

 

『映画刀剣乱舞-黎明-』/審神者については、沈黙しなければならない

「ハリウッド・スケールで描かれるアクション・エンタテインメント大作!」
っていうポスターキャッチコピーはさすがに盛りすぎでは?とは思う。
https://touken-the-movie.jp/

 

人に連れられ『映画刀剣乱舞-黎明-』を見た。基本的には刀剣乱舞ファン向け以上でも以下でもない「閉じた作品」と言ってしまっていいだろう。いわゆる「ファンムービー」だ。そして俺は『刀剣乱舞』に関してまったくファンではない*1

『刀剣乱舞』IPの商品展開としては「ファンムービー」であって何が悪いという感じだろうし、ファンではない俺が何か口を挟むことではないだろう。

だが、映画での前作(物語的なコンティニュイティは薄い)にあたる『映画刀剣乱舞-継承-』が歴史改変SFとしてプロパーのファン以外にも楽しんでもらおうという気概を感じる出来だったのに比べると、本作のそのありようはいかにも貧しい……と外野としてはお節介にも思うところである。

 

思うところではあるんだけど、だがしかし、ところどころにすごく良くなりそうな部分、というか惜しく感じるところがあって、そういう意味で個人的には思いのほか楽しめたと言える。見てるあいだ「んんん、いろいろ足りてないがその意気や良し!」とか思ってた。どういう高さの目線で見てるんだって話だが。

 

特に、まつろわぬ民たる大江山の酒呑童子が日の本へと放った呪詛・憤怒が、一千年後の現代の日本において都市の周縁で顧みられることのない貧困層の少年の慟哭と共鳴し、廃墟のような集合住宅(本作において群を抜いて素晴らしいロケーション!)から放たれた怨嗟の波動が東京を、京都を、日本全国を次々に浸食し、ほぼすべての日本国民の自我・意識を奪うという中盤の展開はとても良かった。寄る辺なき一隅で起こったハプニングが指数関数的にエスカレーションして巨大な事態となる……という、ある種の逸脱したジャンル映画に見られる恐怖のダイナミズム、デモーニッシュなスペクタクル――高橋洋言うところの「映画の魔」のような――になり得る瞬間が本作のあの一連のシークェンスには確かにあったと思う。

映画の魔

映画の魔

Amazon

 

まあそれは俺の一方的な思い込みかもしれない。この映画で描かれる「日の本への呪詛・憤怒」も「貧困の風景」もそこで絞り出される「慟哭」も、どれもが本気ではない「いわゆるそういうやつ」という軽薄な語り口であることを隠しきれていないし、肝心のところで薄っぺらいイメージ映像としてモンタージュ処理されるのはさすがにどうかと思った。

だがしかしそれはそれとして、あのシーンの廃墟じみつつもべったり染みついた生活感のある集合住宅のロケーションは素晴らしかったな。フィクション濃度の高い(それこそ2.5次元な)刀剣男士をあの生のリアル感がある場所に立たせる異化効果は強烈だった。そこは掛け値無しにとても良かった。

調べたところ、ロケ場所は埼玉県富士見市の鶴瀬駅前にあった「富士ビル」というところだったようだ。「あった」というとおり、昨年(2022年)末に解体されてしまったとのこと。うわーすごいタイミングで映画に使えたんだな。

 

 

ただ、そこで繰り広げられるアクションはもう少し頑張ったのを見せてほしかった。ここに限らず、アクションシーン全般がどうも今ひとつふたつくらい惜しい。富士ビルのシーンの前に展開される、廃工場みたいなとこで繰り広げられる三つ巴の剣戟アクションは、台詞回しもファイトコレオグラフもキメキメなんだけどなんか絵としてのレイアウトとか編集のリズム的に間が抜けたとこがあってとても残念だった……というかアクションシーンに限らず、なんかキメ絵になるはずのシーンで妙に間の抜けたショットが出てくることが多くて、うーんどうなんだこれとは思いました。そういうとこも含めて「惜しい」とこが多い映画だった。

 

さて……「刀剣乱舞ファンでもなんでもない俺だが思いのほか楽しめた」というのが基本ラインの感想なんだけど、とは言えこれはひどいなと思った点がひとつある。「仮の主(審神者)」たちの描き方、というか「描かれなさ」についてだ。

本作の物語において、いろいろあって未来から現代(2012年)に派遣された刀剣男士たちは未来にいる(本来の主であるところの)審神者との繋がりが断たれ、そのままではまったく力を発揮することができないどころか存在そのものを維持するのもままならない。そこで、刀剣男士の力を引き出す審神者の素養がある人物たちを「仮の主」とし、一時的な主従関係を結ぶ……という展開がある。

その仮の主というのが「女子高生」「ギャル」「内閣官房国家安全保障局の窓際役人」「神職の初老男性」……と、いかにも「これは面白くなりそう!」なキャラ付けで出てくるわけです。

 

女子高生(いわゆる主人公)

 

博多発東京行き高速バスに乗って刀剣男士と一緒にやって来るギャル

 

内閣官房国家安全保障局のダメ役人(この表情を覚えておいてください)

 

神職おじ


事前プロモーションで映画のストーリーが発表されたとき、この「仮の主」のキャラクター設定についてTwitterなんかではちょっと話題になってたと思う。俺の観測範囲内でのことなので大したサンプル数はないが、おおむね好意的な反応だったように記憶している。こういう、なんていうかオタクエンタメ一流の「面白くしまっせー!」的なキャラクター設定の盛り方(あるいは二次創作的想像力と言ってもいいかもしれん)、まあ、こんなんみんなだいたい好きだと思います。

戦いに特化した人外の存在と仮初めのバディになる、さまざまな背景を持った普通の、あるいは普通じゃない人々の群像劇、そんで伝奇アクション。

そんなんいくらでも面白く回せそうな気がするじゃないですか。燃える展開からほっこり日常経由のエモ哀しい別れまで、オタの好きなもん一通りべろんべろん舐めることできそうじゃないですか。仮の主全員があくまで刀剣男士を引き立てる脇の存在ではあるけどみんな美味しい役どころになりそうじゃないですか。作ってる人・演じる人・見てる人、みんなWin-Win-Winの三方一両ゲットで優勝じゃないですか。この設定で勝ち確みたいなもんじゃないですか。

 

ところがねー、この映画オリジナルキャラクターたちがねー、本当に一切、まったく、ひとかけらも活かされないんですね。

え、そんなことってあります?

 

面白く回そうとしたけどスベって失敗してる、だったらまだ分かる。違うんだなこれが。本作の場合は「回さない、回そうともしない」から本当にびっくりしちゃう。このバラエティ豊かな仮の主の人たち、登場して、ほんのちょっとの台詞で各刀剣男士と絡んで、後はただ棒立ちしてるだけ。本当に立ってるだけ。びびるよ。一切お話に絡んでこず、刀剣男士がピンチの際も励ますでもなくただ後ろに立って見てるだけ。本当にそれだけ。まじびびる。

 

これは公式サイトに掲載されているクライマックス近くの一場面。刀剣男士の後ろに仮の主のうち3人が棒立ちしてるのが見えますよね。たまたまそうなってる瞬間のスチルじゃなく、こんな距離感でずっと棒立ちです。後方腕組み彼氏面でさえない虚無の立ちです。

 

特に窓際役人のキャラクター描写(というか描写しなさ)がすごい。

初登場時には同僚に「あいつ入庁以来何してもダメな税金泥棒だったけど、実はこういう(刀剣男士絡みの)緊急事態に備えて採用されたらしいぜ」みたいな陰口を叩かれます。それってつまり、何か超常の力を(もしかしたら本人も気づかず)秘めていて、ゆえに無能でも雇われてたってことじゃないですか、そういう「展開」のためのわかりやすい伏線として置かれた台詞じゃないですか。

でもこいつ本当に何もしなくて、台詞もほぼなくて、仮の主としての刀剣男士との絡みもほぼ初登場時の短い会話だけなんですよ。なんかあったときにちょっと「驚き顔」をするだけの役なんですよ。最後までそれだけで、「展開」どころか本当に何もないんですよ。すごいですよこれ。

再掲・驚き顔

 

ギャルも神職おじも似たようなもんで、いや別になんか秘められた能力が覚醒してすごい異能アクションを……みたいなことまでは求めないけど(それはたぶんこの映画のメインの客層的には過剰な逸脱に見えると思うし)、でもほら、その「キャラ設定」を活かした刀剣男士との絡み、心の交流、そういうのを経てクライマックスの危機のところで、いわゆる〈アクション〉じゃなくそれまでの「関係性」からの何らかの〈行為〉で彼らを鼓舞したりサポートしたり、そういうのあると思うじゃん普通。

本当に何もないんだよなー。虚無。ナッシング。信じられるか? そんな作劇があるのか?

ほんとここだけはびっくりした。純粋にびっくりしたよ。

 

仮の主たちは「キャラ設定」しかなくて物語を駆動するパーツに一切組み込まれないから、別にギャルとか神職とかじゃなく、全員女子高生であったとしても特に問題ないんだよな。実際、女子高生の友人クラスメートが3人出てくるので、この4人が「ひょんなことから刀剣男士の仮の主に……!」みたいな設定であってもお話の本筋は変わらない。

刀剣乱舞のような、熱心なファンがたくさんいる「コンテンツ」「IP」の一展開である商品において、そのファン層とコンテンツキャラクターとの「関係性」の似姿となるような存在(まあつまり、刀剣乱舞の場合は原作ゲームにおける「プレイヤー=審神者」と同等となる存在)をオリジナルキャラクターとして登場させる場合、どのように処理するのか? 殊に現代のオタクエンタメ業界にとってはそれがけっこうセンシティブな問題で、制作側にとっては難しい意思決定だということはそれなりに理解できる。ちょっとファン層の空気を読み誤ったがゆえにいわゆる「炎上」*2してしまった事例は近々のものに絞ってもいくつか思い出せる。

だから本作における映画オリジナル審神者=仮の主たちの「何もしなさ」はそれらを踏まえた上での針の穴を通すような回答だったのかもしれない*3

でも、言わせてもらえばそんな「忖度」「配慮」みたいなことをおっかなびっくりやるくらいだったら最初からキャラ立ちした「仮の主」なんか登場させず、さっきも書いたように4人の女子高生がひょんなことから……くらいで良かったんじゃないかと思いました。美味しそうな素材を見せられたのに出てきた料理がこれか……という失望がどうしてもあるし、そういうオタ的な感想を抜きにしてもこの物語の組み立て方はどう考えても一本の映画としておかしいと思う。というか単純に、要素を詰め込みすぎて時間内に処理できてないというのが真相な気もするので、そういう意味でも4人の女子高生がひょんなことからおもしれー女程度ので良かったんじゃないかと(しつこい)。

 

さんざん書いといてなんだが、“「刀剣乱舞ファンでもなんでもない俺だが思いのほか楽しめた」というのが基本ラインの感想” っていうのは、見た後に上記のようなことをぐるぐる考えること自体が楽しかったというメタ感想ではあるかなーと思う。最近はもう「よくできた作品」とかどうでもよいなーと思っているので、変なところがある作品こそが俺にとっては面白いんだよなという感じだ。齢45にもなって「ぼくって『変わってるね』ってよく言われるんですよーぜんぜんそんなつもりないのにー」みたいな十把一絡げの自意識過剰ボーイのマインドに近付いていると言えよう。だがそれも人生であり、従容として受け入れるべきである。そうか。そうだ。そうであるか。そうであった。

*1:原作ゲームはほぼまったく触れていない。でも舞台(いわゆる刀ステと刀ミュ)は映像でだけど何本か見ている。

*2:俺はこの用語嫌いなので使うときは基本的にカッコ付きです。

*3:そういう意味では前作『映画刀剣乱舞-継承-』での「審神者」の描き方は実にスマートかつ映画の物語と不可分の存在になっていて見事だった。さすがは小林靖子というべきか。

『トップガン マーヴェリック』/最高練度のウェルメイド

https://topgunmovie.jp/

トップガン マーヴェリック』を見てきたよ。IMAXで。大スターが金をかけ、スタッフも役者陣もその意気に応えて最高の練度で作った「ウェルメイド」、って感じで、まあー実に楽しい一本だった。良かったよかった。

良かったんだけど、本作が良すぎたからか若干の歴史修正を(無意識に)行っている人がいるのがちょっと気になる。たぶん俺と同世代くらいであろう映画好きの人が『~マーヴェリック』の流れで1986年の前作『トップガン』をあたかも名作かのように語る場面を何度か見た。いやー全然そんなことないでしょーだいぶゆるゆるの映画でしょーと思うんだがな。

それは今の目から見てゆるゆるってこともあるんだが、当時の、同時代の観客の感覚としても「ハリウッドのヤングスター映画(=アイドル映画)」としての魅力と影響力は多大にあるけどそういう文脈から独立して生き残るタイプの映画ではないよねという空気感はあったと記憶している。でも、そういう映画であったとしてもあたかも名作であったかのように歴史/記憶を塗り替えしてしまうくらいの力が『~マーヴェリック』にはあったのだ、ということなのかもしれない。それならそれで俺が文句を言うようなことではないが(個人的にはそこまでの感心はしなかったので)。

 

さて、念のため『~マーヴェリック』の予習もかねて前作『トップガン』を改めて見返してみたけど、トニー・スコットの映画としてもちょっとこれは今見てそんなに良いところはないなとは思った。翌年の『ビバリーヒルズ・コップ2』がお話はダルダルなのに映像と編集のセンスだけで見せきってしまうのとは対称的な平凡さだ。

特に中盤のケリー・マクギリスとトム・クルーズのラブシーン(に至るまで)の流れはどう見ても妙で、「愛は吐息のように」がしつこくリフレインされるところも含めて今見ると非常にキッチュな80'sという味わいがある(し、これは当時もわりと変だと受け取られてたと思う。パロディのネタにされがちでしたよね)。

 

そういう意味では、『~マーヴェリック』中盤のトムとジェニファー・コネリーのラブシーンのなんか不思議なショットの繋ぎ(二人の顔が横に並んでて、なんかジャンプカットっぽく時間が経過しているのか、よくわかんないけどトムだけどんどん脱いでいく、あとなんかキラキラしたエフェクトが入る)、あの不思議な感じは前作のラブシーンに通じるものがあり、全体的にカチッとした『~マーヴェリック』の中でも例外的にバランスを欠いたシーンだ。むしろちょっと魅力的ですらある。あそこで「愛は吐息のように」のイントロだけしつこくリフレインされたら面白かったがそこまでやると『ホット・ショット』になっちゃうな。

ほとんどすべての観客が褒めているように、訓練/空戦シーンはどれも素晴らしかったけど、冒頭の極超音速機「ダークスター」(ワンカットだけ機体にペイントされたスカンクワークスのロゴをはっきりと捉えたショットがあるが、なんとちゃんとロッキード・マーチンのスカンクワークスにデザインしてもらっているという!)のテスト飛行のくだりは良かった……というか、え、あの『トップガン』を『ライトスタッフ』のような物語に読み替えるのか!という興奮があった。

だがそうはならず(そりゃそうだ)、前作の流れをほぼそのまま踏襲しながらも主人公の立ち位置を変えることで男が老いとどう向き合うか、そして若い世代に何を継承するか、というハリウッド映画の優等生的な物語に落とし込む。でも演じるのはトム・クルーズなので(さらに付き合っている彼女は現在のケリー・マクギリスではなくジェニファー・コネリーなので)別にリアルな話にはならないしそんなものは誰も期待していないのでこれは別にいい。そういうところはアイスマンヴァル・キルマーが一手に引き受けていて、ここはけっこうしんみりしてしまった(ヴァル・キルマー本人の咽頭癌の件もあり)。

若い世代に何を継承するか的なテーマには「いつかこんな無茶は辞めざるを得ないときが来るけど今日はまだその時じゃない、今回も俺が先頭切って一番の無茶をするからな! お前らに付いてこれるか?」的に煽って若い奴らもウォウウォウそれに応えるという感じでやってたので、まあなんかそんな感じだ。

これはトム・クルーズの映画であり、つまり別に普遍的なことを描くことには一切興味がない、あくまで「トム・クルーズにとっての『老い』への向き合い方」の映画なので別にそれでいいんだが。……ここは重要なことなので重ねて言うが、別にそれでいいのであり、正しいのだ。スターの映画とはそういうものであり、そのように映画を私物化、否、私小説化することこそがスターの存在意義なのである。そしてこの映画においてトム・クルーズが語る私小説はあまりにも健全で真っ当で優等生的に「トム・クルーズに期待されていること」を反映していて、正直なところ俺にはそれがちょっと物足りなかったのだった。

だから、冒頭の極超音速機テスト飛行シークェンスを見たときに俺が勝手に幻視してしまったような、マーヴェリック=トム・クルーズが己の老いとある種の狂気を自覚しながら、孤独に、それでも己の中にある「正しい資質」に殉じるかのように音速の向こう側、彼岸の世界へと突き抜けていく、そんな私小説というよりも「遺書」のような物語を見たかったというのはある。あるけど、さすがにまだそこまでトムは年取ってないよね。俺が先走りすぎただけだな。

極超音速テスト、実際の冒頭のパートではあっさりとマッハ10への到達成功!→さすがだぜマーヴェリック!→だが俺はーさらにーやっちゃうぞー!→マジかよ……信じらんねえ……ってなってオチついてサクッと次に移るの、まさにトム・クルーズの映画の手つきって感じでそれはそれで楽しいんだけどね。

 

さて、映画そのものとは若干ズレる話だが、見に行く前からなんとなくそんな予感はしていたんだけど、SNSの映画クラスタと呼ばれるような界隈の人たちはこういう立ち位置の作品をちょっとデカい言葉で褒めすぎだよなーというのは今回もまた感じた。SNSで通りが良くなるように感想を最適化していった結果、大仰な褒め or 倫理的繊細さの感情的な表明でアテンションを集めるタイプの言説ばかりが目立つようになっていて(目立つように書かれているのだから当たり前だが)、いやーほんとあの界隈の感想は信用できんわーという思いを新たにしました。

シン・エヴァンゲリオンを見に行く

9年前。

明日から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が始まるわけだが、俺は今週末には見ないつもりだ。なぜとっとと見に行かないかと言えば(中略)ごめん嘘。いろいろ言い訳みたくダラダラ書いてきたけど、ほんとはヱヴァQというかエヴァンゲリオンに対して、できれば今の世間の喧噪の中で向き合いたくないからなんだよ……独りで見て、独りで受け入れたいからないんだよ! 35歳にもなってめんどくさいアレなんだけど、こればっかりはしょうがないんだよ! だから俺はこの週末は野火ノビタの同人誌を読んで過ごすよ! ごめんな!

 

今のところほとんど完璧に情報を遮断している。直接の感想はもちろん、ヱヴァQに関する界隈の雰囲気自体どうなっているのかまったく知らない状態だ。何も知らない。
とりあえずTwitterRSSリーダーはてなアンテナなど「偶然目に入る」危険性のあるものはこの一週間ほとんど見なかった。モニタ上で「ヱ」もしくは「エヴ」あるいは「エバー」という文字列を認識した瞬間に視線を斜め上に移動する術を身につけたし(つまり最悪三文字以内に回避)、そもそもスクロールホイールを回すときは三白眼になって周辺視野でテキストをサーチしていたのだった。今年35歳なのに。三白眼でホイールきゅるきゅるいわせてた。あと通勤時など人の多い場所に行くときは常にイヤフォン。たまっていたPodcastの消化がはかどったわー。(中略)これくらいやっていると、なんかもうこの世界にはエヴァンゲリオンなんて存在しなくて、俺だけがその存在しない何かについて心かき乱されているような気分になってくる。だがこの時を待っていた。そろそろいいだろう。もういいだろう。もう俺は映画館に行ってもいいだろう。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に臨むにあたって、まったく同じことをやっている。3月8日の0時から一切Twitterを見ず、ネット全般見るときも画面の中央から目をそらして周辺視野で見るようにしている。在宅勤務中心、出社は週一か二というのもあって近所のコンビニやスーパーに買い出しに行く以外は家からほとんど出てないし、時事ニュースとかトレンド情報的なテレビもラジオも視聴してない(3/8以前に放送したものの録画とかPodcastばかり視聴してる)。

その結果として、シン・エヴァンゲリオンなんてこの世に存在しないかのような気分になっている。だって誰もエヴァについて何も語ってないしさ。そんなことなんてあるだろうか。シン・エヴァンゲリオンが公開されたってのに、誰もそのことについてなにも話してないなんてさ……。でもタイアップキャンペーンとかで街中の普通の店にレイとかアスカとかの等身大ポップやポスターが貼られているのを見かけると、ギョッとするんだよね。たまの出社の日の朝は会社に着くまでにだいたい3回くらいギョッとしている。

9年前は

なんかもうこの世界にはエヴァンゲリオンなんて存在しなくて、俺だけがその存在しない何かについて心かき乱されているような気分になってくる

という境地に至ったが、あれから俺も年を重ね、さらに先の領域に到達したことをひしひしと感じている。人の進化に限界はないのだ。つまり、この世にはエヴァンゲリオンなど存在せず、そしてまた、であるからこそ、この俺の中にもシン・エヴァンゲリオンなぞまったく存在しないのだ。この認識が完全に定着した。事ここに至り、真にフラットな気分で立ち会うことができるように「成った」と言っていいのではないか。

すでに本日の上映の座席を予約している。あと数時間だが、俺の心は凪いでいる。今朝起きたときには、もういっそのこと、見なくてもいいんじゃないか、俺はもう、別にエヴァンゲリオンなんてどうとも思ってないんじゃないか、という気分にさえなった。

 

予約投稿されたこのエントリが公開されるころ、俺はまさに『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見ている。

『ヴァスト・オブ・ナイト』/……何かが空を飛んでいる!

ヴァスト・オブ・ナイトのワンシーンのスチル

Amazon Prime Videoで『ヴァスト・オブ・ナイト』を見た。Amazonオリジナルでの配信だが、元はスラムダンス映画祭に出品されたインディーズ映画で、それをAmazonが買い付けて配信+アメリカではドライブインシアターでの限定上映ということのようだ。

1950年代終わりのある夜、若き電話交換手のフェイと人気ラジオDJのエベレットはニューメキシコで不思議な周波数の音を耳にする。それは彼らの小さな町と未来を変えてしまう可能性を持つものだった。

Amazon Prime Videoでの紹介から引用

粗筋からもわかるだろうし冒頭でストレートに『ミステリー・ゾーン(トワイライト・ゾーン)』へのオマージュを捧げているように、SF/ホラー/奇妙な味の短編小説風味のお話。50年代末のアメリカの片田舎を舞台にした「接近遭遇」もの、といった内容だ。

というわけでお話としてはごくごくありふれたものなのだが、これが初監督作のアンドリュー・パターソンはかなり才気走った語り口で見せていく。

とにかく登場人物がのべつ幕なしに喋りまくり、空に飛んでいる「何か」について意味ありげなタレコミや告白がラジオ局の電話に舞い込む。ほぼ映画のランニングタイムと同じ時間(90分)の一夜の小さな出来事を、技術的に若干不安定なのが逆に不穏に感じる夜間撮影(あるいはそれも計算のうちか)と長回しで紡いでいく。そのリズムが実にユニークだ。

特に年の離れた主人公コンビ(田舎町でちょっとくすぶってるけど地元の人には人気のディスクジョッキー中年男と、電話交換手のバイトをしている女子高生)が延々とたわいもない日常の会話をしながら移動する冒頭のシークェンスは素晴らしく、ジャンル映画を見ているつもりでいたらジャンルのクリシェの語り口とは明らかに異質なものを急に見せられて意表を突かれるという「ジャンル映画を見ているときに最も楽しい瞬間のひとつ」を味わうことができる。

50年代の地方ラジオ局DJブースや電話交換台の描写も魅力的で、序盤の電話交換台の前で徐々にサスペンスが高まっていく長回しのシーンは、アルバイトの女子高生役シエラ・マコーミックの演技と相まってとても良い。こんなに電話交換台がフィーチャーされるサスペンス描写は『暗闇にベルが鳴る』以来じゃないだろうか。

とまあ、全編にそういった場面が頻出して、つまりこれ、ジャンル映画の典型的な題材を、ジャンル映画の枠内から微妙に逸脱したナラティブで描くという、いかにも若々しいインディーズ映画という感じに仕上がっている。感覚的な話になるが、ヒューマントラストシネマの毎年恒例「未体験ゾーンの映画たち」特集上映のラインナップの中にひっそり入っているようなイキフンの、ちょっと拾いものの一本だった。

 

さてこっからは映画本編の感想とは微妙にズレる話だが、本作で個人的に最も感心したのは、いわゆる「接近遭遇」ジャンルをかなり意識的に純「怪談」映画として描こうとしているところ。つまり誰かが「怪談を語る」シーンをメインの見せ場として全体を構築している映画であるということだ。それは映画の前半と後半にそれぞれ別の人物による、長い長い告白として描かれる。その間、映画はほとんどカットを割らず、その告白をする者と聞く者、その語りが成される場を、まるでその語りそのものによって暗闇の向こう側から「何か」がこちらへ実体化するのではないかという予兆をはらんだ、明らかに他のシーンとは違った手つきで描こうとする。

たぶん直接的な影響関係があるということではないだろうが、ここで私が連想したのは『霊的ボリシェヴィキ』だった。この2本にはある種のシンクロニシティがあると思う。ここで本作を『霊的ボリシェヴィキ』とのシンクロニシティから武田崇元経由でオカルトの文脈で語るような感じのレビューは探せばきっと誰かが書いているだろうけど、まあ俺には手に余る。

 

閑話休題。というわけで『ヴァスト・オブ・ナイト』はちょっと拾いものの一本でした。会話が多いけど字幕が若干こなれてないので、吹替での視聴をお勧めしたい。字幕版と吹替版が別々に用意されているわけではなく、再生中に切り替える形なので注意。

 


THE VAST OF NIGHT Official Trailer (2020)

 

ヴァスト・オブ・ナイト

ヴァスト・オブ・ナイト

  • 発売日: 2020/05/15
  • メディア: Prime Video
 
霊的ボリシェヴィキ

霊的ボリシェヴィキ

  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: Prime Video
 

『さらば愛しき人よ』('87)の佐藤浩市

寝る前にYouTubeをダラーッと見てたら、レコメン動画に若い頃の佐藤浩市が写ったサムネイルが混じっていた。おやこれはと思って見てみると、原田眞人監督/郷ひろみ主演の新感覚(?)ヤクザアクション映画『さらば愛しき人よ』('87)からのクリップ。

佐藤浩市郷ひろみの弟分役の木村一八と対峙するシーンで、佐藤のアクの強いキャラクターと「チャカとだんびらどっちが強いと思う?」「タラッタラッタらったうさぎのダンス」という台詞が印象的な場面だ。

どうもこの動画が密かにバズってるらしく、再生数とコメントがじわじわ増えているっぽい。僕が初めてYouTubeで見たのは7月7日あたりで100万再生を越えたくらいだったが、今(7/15の深夜)見たら200万再生を超えている。何かきっかけがあってバズっているというわけではなく、レコメンに上がってきて初めて見て、そのままなんとなく気になって何度も見てしまうという人が多いらしい。

コメントを見てみるとASMR文脈で何回も見てしまうと言っている人がいて、なるほどといった感じ。確かにこの佐藤浩市の芝居、ほとんど囁き声の潰れ声で常にニヤついてるこの感じは、ASMR味が強いと思う。原田眞人のキレッキレのカットワークと画面レイアウトもあって、何度も見てしまう気持ちはわかる。

 

さらば愛しき人よ』は今、国内ではソフトも配信もなく、見るには北米版のDVDを買うしかないようだけど、これきっかけでどこかで配信とかしてくれないかな。ついでに原田眞人つながりで『タフ』シリーズも配信しないかな。

さらば愛しき人よ/ Heartbreak Yakuza(北米版)(リージョン1)[DVD][Import]タフ PART I-誕生篇- [DVD]

高橋ヨシキ『スター・ウォーズ 禁断の真実』

スター・ウォーズ 禁断の真実(ダークサイド) (新書y)

 著者曰く、サブタイトル「禁断の真実」は営業側の要望で付けたタイトルだということで、別にそういったセンセーショナルな内容ではない。公開年ではなく、物語内の時代に沿って各作を語っていく構成(つまりep1から始まりep8までを語っていく。『ローグ・ワン』『ハン・ソロ』もそれぞれの作中年代に合わせてep3と4の間に配置)。

各作ごと、あるいはスター・ウォーズ全作を通じての突っ込んだ評論というわけではなく、著者一流の膨大な知識に裏打ちされたフワッとしたエッセイ、読み物といったところ。私自身は正直、スター・ウォーズにそれほどの思い入れがあるわけではないのだが、ep9鑑賞前のサブテキストとしてサクッと楽しく読むことができた。

 

旧三部作およびプリクウェルまではルーカスらオリジンを生み出した制作者の手にあったため、例えどんな内容であれファンは(最終的には)受け入れざるをえなかったし、制作者側も(結果はどうあれ)新しい挑戦ができた。

しかし、ルーカスの手を離れディズニーのIPとなって以降、関わるクリエイターたちはまず何よりも自らがこの超有名シリーズの新作を継ぐに相応しい者であるという正当性を、つまり自分もまた勉強熱心なファンボーイなのだということを、ファンコミュニティに対して必要以上にアピールしなければいけない状況があり、それはあまり幸福なことではないのではないか……という話が途中出てくる。これはスター・ウォーズに限らず、超有名IP(そう、“作品”というナイーブな対象ではなく“IP”というビジネスの問題だ)の続編をオリジンクリエイター以外の者が作り続けなければいけない現在のエンタメ業界全般に関しても言える話で、ちょっと気をつけて考えていく必要があることだろう。

 

ep9公開に合わせての出版ということで、急いでいたのか校正がけっこう甘い。誤記のためたぶん筆者の主張と反対のことになっている箇所が終盤にあり、そこはマイナス。